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ダムと地質調査(1)ダムとは何か

2021年01月12日

 2020年7月の集中豪雨(令和2年7月豪雨と名付けられました)では、九州から中部地方、さらに山形県まで大きな被害が出ました。特に7月3日から4日にかけて、熊本県人吉市を中心に球磨川流域で死者65名、行方不明者2名という甚大な災害となりました。

 人吉盆地は球磨川本流と大支流の川辺川の他、小纏川、胸川、鳩胸川、万江川などの中小支流が集中し、そこから八代市の河口まで長い狭窄部が続く地形的な特徴があります。このため人吉盆地は水害の常襲地帯となっています。

         2020年7月豪雨による人吉市街の氾濫状態

 今回の水害をきっかけに改めて川辺川ダムの是非について議論が起こっています。川辺川ダムは1966年(昭和41年)から国交省直轄ダムとして事業が始まり、用地の取得、家屋の移転、付け替え道路建設などもほぼ終わり、1999年には仮排水トンネルが完成していました。しかし地元の反対が根強く、2009年に事業が休止したままになっています。(2020年11月に、蒲島熊本県知事は川辺川ダムの建設を容認する発言をしています)

 川辺川ダムがあれば今回の水害を防げたのかどうかについては、様々な意見が噴出し、ダムの必要性について世論が沸き立ちました。災害が起こってしまったことは残念ですが、改めてダムの役割が注目されることは、今後の治水のあり方を考えるうえで決して悪いことではありません。

 地質調査の世界では「ダムの調査はボーリングの花」と呼ばれたこともあるほどで、私たちも数多くのダム現場で仕事をしてきました。しかし一般的に大きなダムは山奥に建設されるものなので、直接ダム建設に係る人(とダムマニア)以外は、ダムがどういう役割を果たしているのか、どう建設されるのか、またそのためにどのような調査が行われるのか、あまり知られていないように感じます。

 そこで今回はダムと地質地調査について述べます。詳細は専門書や、大手の建設コンサルタント会社、ダム便覧のホームページを見ていただくとして、経験に基づいてなるべく具体的に書きたいと思います。

 ダムとは何か。広辞苑はダムを次のように説明しています。

「ダム:発電、利水、治水の目的で水をためるため、河川、渓谷などを横切って築いた工作物とその付帯構造物の総称。堰堤」

 ダムと名の付くものはこれ以外に砂防ダムや鉱山で採掘した岩石の残りかすを貯める鉱滓(こうさい)ダムがありますが、ここでは水をためることを目的としたダムに限定して話を進めます。

 発電用、治水用の巨大ダムも、取水のための堰堤も、ため池もすべてダムということができます。これらは水をためるための構造物という本質では何ら変わりありません。ダムの起源は水をためて利用する堰堤で、要はため池です。現存する世界最古のダムは紀元前1300年頃に作られたといわれるシリアのナー・エル・アシダム(堤高2m、堤頂長2,000m)で、現在も上水道の取水のため使われているそうです。

 日本でも7世紀前半の飛鳥時代に大阪府に狭山池、8世紀初頭の大宝年間に香川県に満濃池が築かれています。狭山池の現在の堤高は18.5m・堤頂長997m、満濃池も堤高32m・堤頂長155mの立派なダムです。どちらも建設以来何度も修理されて現在も使われていますが、古くは行基、空海が改修にかかわったと伝えられています。仏僧がこうした土木事業にかかわっていたことは大変興味深く、当時の仏教のあり方をうかがわせます。

            香川県にある現在の満濃池

 こうした大型のため池だけでなく、日本全国には約17万のため池が存在していますが、河川法では大小さまざまなダム、ため池について明確に分けています。堤高15m以上のものをダム、それ以下のものを堰(せき)として区別し、15m以上のダムについては河川管理施設等構造令で詳細な技術基準を定めています。これは15m以上のハイダムは、目的はいろいろでも貯水量が多く、万一破堤することがあれば大きな被害が発生するからです。


令和3年 明けましておめでとうございます

2021年01月05日

 令和3年、新しい年を迎えました。

 新型コロナウィルスの流行が第三波になっていると言われ、年末には全国で1,000人以上の感染者が出てきています。1月7日には、東京都をはじめ一都三県に「緊急事態宣言」が発出される予定だそうです。当社は比較的新型コロナ禍の影響を受けにくい仕事ですが、観光業や飲食業の方たちは本当に深刻な状況です。一日も早い終息を願うばかりです。

 当社も恒例の忘年会、新年会もなく、寂しい年末年始となりました。私もそうですが、社員の皆さんもおとなしく自宅で過ごした人が多かったようです。新年の安全祈願も、いつもは神職を迎えて会社事務所で執り行うのですが、今年は代表者のみ二柱神社でお祓いを受けてきました。

 一方で年末年始はここ数年ないほどの本格的な寒波となり、日本海側ほどではないにしろ連日の積雪で、毎日雪かきです。腰が痛くなりました。これからもまだ積雪が予想される地域での仕事がありますので、焦らず安全に現場を進めていきたいと思います。

 「明けない夜はない」とよく言われます。今年一年、また社員一同頑張っていきたいと思っています。

         二柱神社で宮司さんのお祓いを受けました

        新年の二柱神社 今年は参詣客も少ないです


手前味噌ですが・・・

2020年12月16日

 ホームページを昨年4月に改装して、1年8カ月が過ぎました。改装は求職する方に対して「当社がどういう会社で何をしているのか」について理解してもらうことを一番の目的にしていました。

 今年は新型コロナウィルス流行の影響で求人数が激減し、宮城県内の有効求人倍率は昨年10月の1.57(常用的フルタイム有効求人倍率)から、今年10月は1.16に落ちています。この低下はほぼ全産業に共通していますが、唯一の例外が建設業です。昨年10月に比べ、1%の微増となっています。(2020年12月1日宮城労働局発表)

         2020年12月1日宮城労働局発表の資料より

 当社は建設業ではありませんが、建設関連業に分類されています。建設業同様、この業界も高齢化が進み、引退する人に比べ入ってくる若い人が少ないのが実情です。本当に大事な仕事なので残念なことです。この現状を何とか変え、業界(と当社)の将来を担う若い人たちに入ってきてほしいと願いホームページを改装しました。

 地質調査、ボーリングは目につきにくい仕事です。建設業であれば、ビルを建てる、橋を架けると、目に見えますから比較的わかりやすいのですが、地質調査は建設を始める前のいわば裏方の目立たない仕事です。そもそもこんな仕事があることを知らない人も多いと思います。「仕事はボーリングです」と言うと、だいたい球をゴロゴロ転がす「ボウリング」だと思われます。

 このブログも、当社の仕事と内容を知ってほしいという思いでせっせと書き続けています。手前味噌のようですが、ホームページを見てくださっている人もだんだん増えてきています。改装当時は1日5人とか10人程度だったのが、最近では1日40~50人くらい、多い日は80人ほどの人が見てくれています。ただ、誰が見てくれているのかはわかりません。

「お問い合わせフォーム」にくるメールは営業メールばっかりです。

「顧客拡大のためのアポイントを取る営業代行をします」とか「お客様が画期的に増える動画を低額で作成します」といったメールですね。

 ところで話がずれますが、会社の規模が小さいということもあり、当社には創業当時から営業専属の社員がいません。営業をしないわけではないのですが、基本的に日々の業務とその技術的成果が営業であるという考え方でやってきました。

 ホームページとブログは、営業も目的のひとつですが、それよりも、ハローワークや学校で求人票を見たり、ネットの求人媒体での記事を見て興味を持った人が「どんな会社かな?」とホームページを見たときに、「こんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と理解してもらうことを目的にしています。そのためこのブログも、以下のことをテーマに書いています。

・当社の業務である地質調査・ボーリングとはどのようなものか。

・当社がどんな雰囲気の会社なのか、どういう考えで運営しているのか。

・建設工事と地質調査の関係について。

・地質調査と応用地質学の大きな分野である防災に関して、水害、土砂災害、地震災害などの情報と、歴史的背景につ いて。これについては、被害を少なくする防災・減災に少しでも役立てればという思いもあります。

 こうしたことをこれから入ってくる人を対象に書いているので、専門技術者から見ると大雑把であり、ち密さにかける文章だという指摘があろうかと思います。書いている私(代表熊谷です)は、社員の家族が読んで「うちのお父さん・お母さんの会社はこんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と分かってもらえることをイメージしています。とはいえときどき脱線し、私の思いが先行し難しくしてしまったかなと思う文章もあります(「温暖化について」など)。

 というわけで、実際の経験や感じたことなどもおりまぜながら、なるべく具体的に書いていきたいと思っています。書いている人間の体温が感じられる文章の方が、親しみやすく入りやすいと思うからです。営業だけでなく、読んでみての感想も「お問い合わせフォーム」から頂けると幸いです。(匿名でもかまいません)


平庭峠の白樺

2020年11月07日

                平庭峠の白樺林

 仕事で岩手県久慈市に時々出かけます。仙台から久慈に向かう場合、東北道から九戸インターか軽米インターで降りて一般道を使うのが普通ですが、急がない時は滝沢インターから沼宮内、葛巻を通って久慈まで走ります。わざわざ時間をかけるのは、平庭峠の白樺林を見たいからです。特に新緑、紅葉の時期の平庭峠は絶品で、観光の目玉のひとつになっています。

 ところで、白樺というと長野、北海道は有名ですが、東北地方でこれだけの白樺林があるのは平庭峠だけだと思います。白樺は、この地域の山地の雑木林の中にある樹種ですが、ミズナラなどに混じってまれにぽつぽつとみられる程度です。なぜここだけがそうなっているのか、以前から不思議でしたが、あるとき「山形村史」を読んでこの謎が解けました。

 「山形村史」によると、山形村(現在では合併により久慈市山形村になっています)と隣の葛巻町では、昔から林業、特に薪炭業(炭焼きですね)が盛んでした。ところが、白樺は材質が柔らかすぎるため、建築材としても、薪炭材としても役に立たず、ミズナラ、クヌギ、ブナなどの有用材をだけを伐採し白樺はそのまま残したのだそうです。さらに白樺は陽樹、日の当たるところで幼樹が成長する木のため、ほかの木の伐採後にどんどん増えてしまい、現在のほぼ純林状態になった、つまり結果として人工的な林になったということです。

 そういうわけで観光資源となった白樺林ですが、白樺は成長が早い一方で、寿命が短いという特徴があります。おおむね80年から100年程度の寿命だと言われています。また、白樺の林の下からは、陰樹(日陰で成長する樹種)であるミズナラなどが成長し、白樺は世代交代できないことになります。したがって、そのまま放置しておくと再び東北地方本来のミズナラ、ブナ林に戻ってしまう運命にあります。

 この白樺の純林がこのまま維持されていくのか、あるいは岩手県北部に特徴的なミズナラ、クヌギ、クリ、カエデなどの混合林に戻ってしまうのかはまだわかりません。いずれにしても自然は必ずしも「自然のまま」にあるわけではないことを感じさせられます。ただ、これは長い時間の中で変化していくものなので、まだしばらくは今の美しい白樺林が見られるものと期待しています。


北上川についていろいろ(6)明治以降の北上川下流域の改修

2020年10月19日

 明治維新後、大久保利通を中心とした新政府は、殖産興業のための社会資本整備と不平士族の職業対策として土木事業を進めました。この事業として進められたものが、琵琶湖疎水、安積疎水であり、宮城県内では貞山運河、北上運河の整備、野蒜築港事業がありました。

 こうした近代的国土整備の一環として明治29年に旧「河川法」が制定されます。それでも北上川流域の整備が大きく進められるにはきっかけが必要でした。そのきっかけになったのが明治43年水害です。

 明治43年8月、関東・甲信越・東北地方の太平洋側を中心に1都15県で豪雨があり、利根川、荒川、多摩川、信濃川、富士川、北上川、阿武隈川などで破堤・氾濫が起こり、土砂災害と合わせ死者・行方不明者2,497人、堤防決壊約7,000箇所、橋の流失約7,200箇所、山崩れ約18,800箇所という大被害が発生しました。宮城県内でも320人の死者・行方不明者が出ています。

          明治43年水害 東京下谷区の被害状況

 その損失額は約1億1,200万円、当時の国民所得の3.6%に相当したといわれています。この災害を契機に、第1次治水長期計画が制定され、北上川も直轄施工河川として治水工事に着手することになりました。この時の北上川改修の目玉は、川村孫兵衛が締め切った柳津-飯野川間を再度開通し、追波川に北上川本流の水を流すことでした。

 明治44年1月から開かれた帝国議会衆議院で、内務省技師(旧内務省は現在の国交省、総務省、警察庁などの機能を合わせた巨大な権限を持った官庁でした)沖野忠雄は次のように述べています。

「北上川の治水策は難しいのでありますが、(中略)柳津というところがあります。其の柳津から1本新川を作り(略)追波川に落とす。本流は石巻の港に落とす。(略)そうすると洪水の逆流を一切避けることができるのであります。」

 というわけで柳津-飯野川間の新北上川の開削から北上川第1期改修工事が始まりました。ただこのためには、柳津町の市街地が流路になるため、市街地の三百軒が移転するという犠牲を必要としました。工事は大正元年11月に始まり昭和6年3月に新北上川は通水します。

          蒸気機関を用いた新北上川の掘削工事

 その後改修工事は以下のように進みます。

・飯野川-追波湾の間の浚渫

・柳津から上流のかさ上げによる既設堤防の強化

・石巻湾の浚渫、河口導流堤の建設

・飯野川可動堰の建設

・旧北上川との分流点に鴇波洗堰、脇谷洗堰の建設

 また、懸案であった迫川の改修は、新北上川の通水後、昭和7年に登米市山吉田から旧北上川へのショートカット工事が始まり、これが現在の迫川になっています。迫川の開削工事終了は昭和15年(1940年)、登米郡住民の悲願は実に300年かかって実現したことになります。

 北上川と旧北上川の分流施設である鴇波水門、脇谷水門の完成は平成20年3月、これをもって北上川改修工事は一応の完成を見ました。これらの分流工事の結果、現在の計画高水流量(百年確率で最大の水量が流れたときの計画流量)は、北上川(追浜川)が8,700m3/毎秒、旧北上川(石巻)が2,500m3/毎秒となりました。これは、狐禅寺狭窄部以北の岩手県側に降った雨は追波湾に流す、宮城県側に降った雨は石巻湾に流すということを意味しています。(これは想定最大降水の場合であり、普段はその時々の水量を勘案して分流しているわけです)

 現在の北上川下流域の複雑なありかたは、伊達政宗の着手以来400年にわたった治水工事の結果だったのです。

        北上川と旧北上川を分流する現在の脇谷水門

           明治以降の北上川下流域の流路

主な参考文献・資料

「日本の自然2・東北」岩波書店

「北上川物語」河北新報社

地域地質研究報告「登米地域の地質」

内田和子「一関遊水地の展開過程」(1984)

松浦茂樹「明治43年水害と第一次治水長期計画の策定」(2008)

阿子島功「北上川中下流域の河谷底の構造」(1968)

  〃 「磐井丘陵の地形」(1969)

大熊孝「洪水と治水の河川史」平凡社

国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所ホームページ

    〃       北上川下流河川事務所ホームぺージ

国道交通省関東地方整備局ホームページ

一関市ホームページ