すでに社員、協力会社には連絡済みですが、8月11日に予定していた令和3年度の安全大会を延期することにしました。
昨年の安全大会からの1年間で、車両事故3件(いずれも物損事故)、人身事故1件(不休災害)がありました。これらの当社の事故や他社の事故事例をテーマに、事故を防ぐためにどうすればいいのか社員、協力会社全員で検討、討議を行う予定でした。残念ながら7月からの新型コロナ感染症の拡大のため延期せざるを得ないと判断しました。
首都圏を中心に現在デルタ株を主流とした第5波と呼ばれる流行に見舞われています。今後その影響は宮城県内にも及ぶ可能性があります(すでに及んでいるのかもしれませんが)。当社でも仙台北法人会主催の職域接種に参加し、若手社員も含めてワクチン接種を進めているところですが、現在の状態で大人数を集めての大会の開催は難しいと判断したものです。いつ開催できるかは未定です。
引き続き月例の安全パトロールやメールを使った安全目標の通知、元請け各社からの安全についての連絡、事故事例の報告などで安全活動を続けていきます。社員、協力会社の皆さんは、安全大会ができない分なお一層気を引き締めて、無事故無災害で各現場業務を進めるようお願いします。
2021年4月28日、国会においていわゆる「流域治水法案(特定都市河川浸水被害対策法等の一部を改正する法律案)」が可決、成立しました。これは治水の基本方針の転換として大きなニュースとなり、新聞、テレビでも広く報道されました。
まず、この法案の成立までの流れを簡単に追ってみます。
・2020年1月23日、土木学会が「台風19号災害を踏まえた今後の防災・減災に関する提言~河川、水防、地域、都市が一体となった流域治水への転換~」を発表。
・2020年7月、社会資本整備審議会が「気候変動を踏まえた水害対策のあり方について~あらゆる関係者が流域全体で行う持続可能な『流域治水』への転換」を答申。
・2020年7月6日、国土交通省は「総力戦で挑む防災・減災プロジェクト」を公開。
・2021年2月2日「流域治水法案」を閣議決定。
・2021年3月30日、国土交通省は全国109全ての一級水系の「流域治水プロジェクト」を一斉公開。
・2021年4月28日「流域治水法案」が国会で成立。
このように、土木学会の提言から法案の成立まで、約1年3か月と一気に進みました。これはやはり近年の水害の多発に対する危機感が広く国民に共有されていたからだと思われます。
一連の流れの端緒となった土木学会提言は「明治以降、流域のバランスを考えた治水事業が功を奏し、全般的には治水安全度が飛躍的に向上したが、・・高度成長期以降、都市化が急激に進み、氾濫リスクが高い領域にも関わらず、平時の利便性から市街化が進んだ地域が多い」とまず指摘します。そして「高齢化と人口減少により・・現状では治水事業や水防等が『体力不足』の現状にある。」「近年のように激甚な洪水被害に見舞われ、・・さらに今後の気候変動の影響によりますます降雨負荷が増加することは確実である。」したがって「国家の存亡をかけて、防災対策に大胆な投資を進めていく必要がある。」そのためには「流域全体を俯瞰して土地利用の見直しを進め、それに基づく効果的、かつ効率的な国土強靭化策を講じる必要がある。」と訴えています。
簡単にまとめてしまいましたが、率直かつ大胆にわが国の将来を見据えた内容で、さすが土木学会と感じさせる提言となっています。
ここから社会資本整備審議会の答申や法案が出てきています。内容は多岐にわたるので実際に読んでいただけばいいのですが、私なりにまとめると【流域治水】を提案した背景は二つです。
(1)気候変動による降雨の激化
下のグラフは気象庁が発表した、日降水量200ミリ以上の年間発生率の変化です。1901年からの120年間のデータを解析した結果、1日の降雨量が200ミリ以上という大雨を観測した日数は増減を繰り返しながらも、長期的には明瞭な増加を示している、としています。1901年に1地点当たり平均0.67日であったものが、1.27日に増加しているので、統計上有意な変化といえるでしょう。

気象庁は温暖化が現状で進んだ場合、200ミリ以上/日の降雨量、50ミリ以上/時間の強い雨の頻度が、21世紀末には20世紀末の2倍以上になると予想しています。これが本当に温室効果ガスによる温暖化に原因があるのかどうかは議論の余地があると思いますが、気候変動による豪雨の激化は間違いのないところだと考えられます。この危機意識が背景のひとつめです。
(2)日本社会の変化
昭和30年代の高度経済成長期以降、大都市への人口の集中が起こり、かつては雨が降れば湛水し遊水地化するような河川沿いの低平な場所も、連続堤によって守られ、住宅や工場が建てられ、生活と生産の場所として活用されされるようになってきました。
東京ではもともと水害の多かった東部低地帯の江東5区だけでなく、かつては水害と無縁と思われていた山の手でも水害が多発するようになりました。いわゆる都市型水害です。山の手の台地を刻む谷川沿いの低地でも宅地化が進み、降った雨は道路の舗装や屋根にさえぎられ、地下に浸透することなく下水道を通じて直ちに河川に流出します。排水系統の整備により、局地的豪雨でも身近な中小河川が氾濫するようになったのです。
昭和32年の諫早水害、昭和57年の長崎水害もそうした都市型水害の典型例です(ちなみに長崎水害での1時間180mmの時間最大雨量の記録は現在でも破られていません)。
もう一つの変化が「少子高齢化」による人口減少の影響です。「提言」では「高齢化や人口減少により、水防活動、避難は一層困難になっている」と指摘しています。これまでの防災活動の主体であった地方自治体の体力が限界に近付いているということです。
このように社会条件が変化していく中で、平成20年代後半から、温暖化による降雨の激甚化が指摘されるようになってきました。平成29年九州北部豪雨、平成30年西日本豪雨、令和元年東日本台風(台風19号)、令和2年7月豪雨(球磨川水害)など毎年のように発生する水害は、これまでの治水の技術、考え方では対応しきれないのではないか、と強く感じさせることになりました。これらの変化が【流域治水】という考え方への転換をもたらしたのです。
前回のブログで、江戸時代を舞台にした小説「蝉しぐれ」を話しのネタに治水について述べました。日本の近世を代表する治水家として、武田信玄、加藤清正、成富兵庫などの戦国時代~江戸初期の武将たちが有名です。こうした高名な武将以外にも、仙台藩の川村孫兵衛、関東の伊奈忠次、忠治、土佐の野中兼山などの土木家たちがよく知られています。
武田信玄は、富士川上流、釜無川扇状地の氾濫を防止する独特な治水システムを作り上げました。釜無川の信玄堤は大変有名です。加藤清正は白川流域でさまざまな工夫を凝らした河川改修を行い、熊本の基礎を築きました。また、同じ九州の成富兵庫も筑後川を背負い、有明海に面した低平な佐賀平野の治水に力を尽くしています。

武田信玄像(甲府市)
彼らが行った近世の治水事業の特徴は、それぞれの河川、地形の特徴に合わせ、きめ細かなシステム、構造物を作っていること、そして洪水氾濫を一定の場所で許すというところにありました。これは、近代のような機械化された大規模な土木工事が不可能であり、そうせざるをえなかったからでもあります。
これに対して、明治以降の治水の基本的考え方は、両岸の連続堤で氾濫を抑え、屈曲部をまっすぐにし、河口部では分水によって排水量を増やす、つまり「降った雨は滞留させずに速やかに海に排出する」というものです。明治43年の「第一次治水長期計画」の策定以来、この方針に沿って河川改修が営々と続けられてきました。
下の表は昭和20年(1945年)以降の日本の主な自然災害による犠牲者の数です。昭和20年代は枕崎台風や洞爺丸台風など、犠牲者1,000名を超える大災害が連続していますが、昭和34年の伊勢湾台風を最後に、このレベルの大水害は発生していません。(地震による災害は別として)そうした意味では近代治水技術の勝利といえるでしょう。

1945年以降の災害による死亡・行方不明者数
(内閣府 令和元年防災白書より)
ところで、河川改修工事が進むにつれて、同じ降水量でも河川の水位が上昇するという現象が起きるようになってきました。これは、堤内地(堤防に守られた家がある側)での降雨の滞留を許さず、速やかに河道内に導くという、改修の目的から当然起きてくることでした。
下の図は利根川の高水流量計画図です。江戸川との分岐点にあたる栗橋での計画高水流量(その時点での想定最大の洪水流量と考えていいです)を見てみましょう。明治33年の改修計画では、明治29年の洪水流量を目安として、3,750m3/毎秒と設定されました。これに基づいて銚子にある河口から上流に向かって築堤工事が進みました。ところが明治43年の洪水で栗橋の流量は約7,000m3/毎秒とされ、計画流量は5,570m3/毎秒に変更されます。さらに昭和10年水害、昭和22年水害(カスリーン台風時)と高水流量は次々と大きくなっていきます。

高橋裕「国土の変貌と水害」から引用
これは利根川に限ったことではなく、北上川や筑後川などにも共通し、治水工事を熱心に進めるほど、中下流部の洪水流量負担が増えるという皮肉な結果になっています。
洪水と水害は同じように用いられる言葉ですが、実は違うものです。洪水とは豪雨によって通常より大量の水が流れる現象です。河道を大量に水が流れることも、それが川からあふれ、あたり一面水浸しになることも洪水です。しかしそこに人の生活がなければ単なる「自然現象」で、水害にはなりません。人々が暮らしている場所で洪水が発生し、被害が出ると水害と呼ばれます。つまり水害とは「社会現象」なのです。
「分家水害」という言葉があります。昔からある「本家」は長年の経験から水害にあいにくい場所に家を建てていますが、そこから分かれた「分家」は、そうした土地が得にくいため、災害に弱い土地に建てられることが多い、という意味です。現在はこの「分家水害」が大規模に発生するようになった時代だと言えるでしょう。
当ブログ2019年12月11日付「地形という災害の記録」でも書きましたが、それまで太田川の氾濫と、山からの土石流を避けるように住んでいた集落に代わり、危険性を無視した大規模な宅地開発を行い、多くの人が住むようになった広島市安佐南区の災害はその一例です。1960年代の高度経済成長期以降、このような災害の危険のある区域が多くの人の生活と生産の場に変わってきました。こうしたことが、今注目されている「流域治水」という考え方につながっています。
次回以降この【流域治水】について紹介します。

2005年公開 映画「蝉しぐれ」から(東宝配給)
藤沢周平は大好きな作家です。「用心棒日月抄」や「隠し剣秋風抄」などの名作があり、この隠し剣シリーズは「隠し剣鬼の爪」や「武士の一分」などの映画の原作にもなっています。「蝉しぐれ」もよく知られた作品です。
藤沢作品でおなじみの海坂藩を舞台に、藩上層部の権力争いに巻き込まれ父親を亡くした少年が、剣の師匠から伝えられた秘剣「村雨」を武器に、父の死の真相を暴き、藩主の愛妾となった幼なじみの女性を守りながら、政敵と戦っていくという小説です。映画では主人公、牧文四郎を市川染五郎(現松本幸四郎)さんが、テレビドラマでは内野聖洋さんが演じていました。どちらもかっこよかったですねー!
この小説の初めのころに、大雨に襲われた城下を洪水から守るために堤防を切る場面があります。城下町が水にのまれそうになった場合にあらかじめ切る予定になっている場所へ、普請組(今でいうと役所の土木・建築課ですね)の武士と人足が急ぎます。その時文四郎の父助左衛門(緒形拳さんが演じていました)が、農地の被害の少ない場所で土手を切ることを訴えます。これによって、場所を変更して堤防を切開し、城下は守られ、農地の被害も最小限で抑えられました。
現代の日本では水害を防ぐために堤防を人為的に決壊させることはまず考えられませんが、かつては水防の常套手段でした。また、あえて堤防の高さを左右で変えたり、一部を低くして万一の時にはそこから洪水を誘導するということもありました。
有名なものには、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の堤防の高さの違いがあり、木曽川左岸の堤防が最も高く作られていました。これは尾張徳川家のいる名古屋を優先的に水害から守るためと伝えられています。尾張側(愛知県側)と美濃側(岐阜県側)では高さの差が三尺(約1m)あり、美濃側では水害が頻発したため、輪中提(集落や耕地を洪水から守るためその地域全体を取り囲む堤防)が発達することになりました。
日本水フォーラムの代表理事、竹村公太郎さんは「治水の原則は、洪水の水位を1センチでも2センチでも下げること」と言っています。(東洋経済新報オンライン2019年10月23日付)堤防を切って任意の場所で洪水をおこし、水位を下げることは、古くから広く用いられた効果の高い方法です。しかし社会的強者のために社会的弱者を犠牲にする方法であり、現在では合意の得られない方法である、と指摘しています。
竹村さんは洪水を防ぐ方法として次の五つを上げ、それぞれに欠点があると言います。
①洪水をある場所で起こし、川の水位を下げる。
これは上で述べた、任意の場所で洪水を起こす方法です。
②洪水を外に誘導して水位を下げる。
河川の切り替え、放水路の建設などがこれに当たります。こうすれば水位は間違いなく下がりますが、誘導された地域は洪水の脅威にさらされます。
③川幅を広げて水位を下げる。
川幅を広げるためには川沿いの土地を必要とし、貴重な土地を犠牲にしなければなりません。
④川底を掘って水位を下げる。
これは新たな土地を必要とせず、いい方法に思えます。しかし下流部の大規模な浚渫は海からの塩水の逆流を発生させるため、河口部に川を横断する大規模な潮止堰を作らなければなりません。
⑤ダム、遊水地で水をため、水位を下げる。
極めて効率的な方法ですが、広大な用地を必要とします。また、この方法でメリットがあるのは遠く離れた都市部であり、用地を提供する地元には何のメリットもありません。
それぞれの方法に効果はあるのですが、どの方法にも欠点があります。つまるところ治水の方法には、こうすればうまくいくという絶対的な解答はないのです。
小学校の卒業式の式辞で校長先生が「皆さんには無限の可能性があります」というようなことを言います。記憶が定かではありませんが、私も多分こんな祝辞を受けたのでしょう。この言葉を聞くと、それからの50年で「無限の可能性」を捨ててきた自分の来し方を思い出し、なんというか複雑な気持ちになってしまいます。
2020年の小学生がなりたい職業は、男子では1位「スポーツ選手」、2位「警察官」、3位「運転手・運転士」。女子は第1位「ケーキ屋・パン屋」、2位「芸能人・歌手・モデル」、3位「看護師」だそうです。(クラリーノランドセルを購入した子供へのアンケートより)
かわいらしいアンケート結果ですね。ちなみに私は、聞かれるたびに答えが違っていたような気がしますが、「ぼうけん家」と答えた記憶があります。「怪傑ハリマオ」とか「兼高かおるの世界の旅」とか見ていたせいでしょうか(古いなー!)。
子供たちに「無限の可能性」があるのは間違いありません。しかし、無限の可能性があるということは、実はどの可能性もまだ実現していないということでもあります。可能性を選択していないからこそ、選択肢はたくさんあるのです。
中学から高校、大学と成長していくにつれ、多くの可能性は捨てられ、就職となった時にひとつの可能性を選択することになります。仕事を選ぶということは、様々な可能性の中から実現可能なものを一つ選ぶ作業ということができます。
もちろん就職時の選択がすべてではありません。別の可能性に賭けて転職することもあるでしょう。また芸能人にして作家兼画家というような多才な人もいます。すごいところではレオナルド・ダ・ビンチのような万能の天才と呼ばれるような人もいます。こうした多才な人はまれとしても、一つの職業を持ちながら、別の仕事で才能を発揮している人も多くいます。とはいえ、われわれのような凡人は、まずひとつの仕事を選択し、そこから始めていくのが一般的でしょう。
元伊藤忠商事の社長で、のちに駐中国大使を務めた丹羽宇一郎さんが次のようなことを言っていました。
もともと商事会社を希望していたわけではなく、希望する職種に落ちたために入社し、入社してからは鉄鋼関係などの華やかな分野ではなく、大豆の売買を担当させられいやでいやでしかたなかったそうです。入社2か月後には辞めようと思い相談したところ、まず3年間は辛抱しろと諭されたそうです(当たり前ですね)。面白くないけれど、何とか面白いところはないかとその分野を一生懸命勉強していると、少しずつ面白くなってきた。そしてやがて貿易のプロとして会社にとってかけがえのない存在になっていった・・。
丹羽宇一郎さんは優秀な人ですが、ここでの話の肝(キモ)は「自分の仕事の面白さを探す」というところにあります。
4月に多くの若者が新たに社会へと旅立ちました。その中には希望する職種、会社に入れず、残念ながら不本意な仕事に就いた人もいるでしょう。また、「無限の可能性」とはいっても現実には能力の差はあり、野球選手でもみんなイチロー選手や大谷選手のようになれるわけではありません。
人の一生にとって仕事がすべてではありませんが、最も長い時間を費やすのが仕事であるのも事実です。自分の仕事に充実感を持てるかどうかは大きな意味を持ちます。大事なことはその仕事に面白さ、やりがいを感じることができるかどうかです。会社はそうした方向に導いていかなければなりませんが、最後はやはり本人の仕事に対する意識によって決まります。新しく社会に出た皆さんが、自分の仕事に面白さを見出せることを切に願っています。