(3)でも述べましたが、庄内平野は砂州に閉じ込められた潟湖が、最上川が運ぶ土砂によって埋め立てられた海岸平野であり、最上川、赤川、日向川、月光川の三角州が重ね合ってできています。現在の庄内平野は全国でも有数の米どころで、美しい田園風景が広がっていますが、昔からそうだったわけではありません。
当ブログで新潟平野や石狩平野などの開拓の歴史を述べてきましたが、庄内平野も同じような(各地域の違いはありますが)自然、地形条件との闘いがありました。
庄内平野の開発と水利用が本格的に始まったのは、最上義光の家臣であり、狩川城主であった北楯大学による北楯大堰の開削に始まります。それまでは山水を利用した小規模な田圃があるだけでした。北楯大堰は清川で最上川に合流する立谷沢川に堰を設けて取水し、庄内平野南部に水を供給し、大規模な開拓を可能にしました。北楯大堰の総延長は32km、5,000haの新田が開発され、88の村が開かれたと伝わっています。
現在の北楯大堰
しかし1945年以前の水利用は最上川支流の中小河川(藤島川や京田川など)に限られ、最上川本川からの取水はできませんでした。それは最上川が氾濫時に流路を変え、当時の技術では制御できなかったこと、また、平常時は水面が低く、自然流下で取水できる堰を設けることができなかったためです。
ここで少し庄内平野の最上川の流れを見てみましょう。現在の流れは堤防で固定され、比較的まっすぐに流れていますが、かつては大氾濫によって流路を大きく変えていました。古い時代の流路ははっきりしませんが、古文書によると現在の酒田北港付近、古湊を河口にしていた時代もあったようです。また、酒田市も現在の市街地ではなく、川南の宮野浦地区にあり、ここが最上川の河口港でした。最上川の流れの変更にあわせて、1500年頃から1600年頃にかけて酒田の街が現在の位置に移動したと伝わっています。
下の図は慶安3年(1650年)から3年間かけて行われた、最上川改修の図面です。大きく蛇行していた流路をショートカットして新川を開削したことがわかります。この図面を昭和12年発行の旧版地形図から読図すると以下のようになります。現在の流路との違いがよく分かります。
元禄2年(1689年)ごろの最上川
.jpg)
旧版地形図(昭和12年)に加筆した最上川旧流路
酒田は最上川の最下流なので、上流の盆地や狭窄部で流量が調節されるとはいえ、上流で降った雨はすべて流れてきます。そして河口付近で赤川が合流していました。河口付近の砂丘もまた狭窄部と言えます。したがってここでの氾濫は地形的な宿命と言っていいものです。
明治以降におこなわれた大事業は、ひとつは酒田河口と酒田港の分離です。最上川が運ぶ土砂によって河口港である酒田港の水深が浅くなり、港としての機能が果たせなくなることを防ぐため、背割堤を築き分離したのです。秋田の雄物川河口でも同様の工事が行われています。雄物川の河口が土崎港(今の秋田港)でしたが、放水路(現在の雄物川)を開削し、秋田港の水深を確保しています。
もうひとつが昭和2年に完成した赤川放水路の開削です。これ以前は赤川に京田川、大山川が合流し、河口付近で最上川に合流していました。日本海に向かう赤川の進路が砂丘に妨害され、最上川に合流するしかなかったのです。このため最上川の洪水が赤川、京田川、大山川に逆流し、その流域でも氾濫を起こします。大正10年の大洪水をきっかけに砂丘を開削し、赤川を分離したのです。現在では赤川は独立した川になり、京田川は逆流を起こさないように最上川と背割堤で分離されています。
こうした治水対策を行って、初めて戦後の利水事業が可能になったのです。国営農業水利事業として、現在は最上川本流からの取水が行われています。川北には草薙頭首工、川南は最上川取水口から直接取水し、それぞれが広い庄内平野に配水されています。そしてその安定した取水を可能にするために作られてたのが、立谷沢川との合流点の少し上流にある、さみだれ大堰です。

草薙頭首工(「水土里ネット日向川」から引用)

さみだれ大堰(国交省酒田河川国道事務所より引用)
さみだれ大堰はゴムを利用した可動堰です。ラバーダムと呼ばれますが、満水時にはゴムを収縮して水をそのまま流し、渇水時にはゴムを膨らませてゲートを上げ、川の水位を上げることができます。ゴムの収縮時にはゲートは見えず、ただの橋のように見えます。
庄内平野は月山、鳥海山の眺望を持ち、四季折々の美しい姿を見せてくれます。稲穂が風に揺れているときはなおさらです。この美しい景観も長い先人たちの自然と地形、そして水害との戦いの後にあることを知ってほしいと思っています。