明治に入り鉄道が全国に敷設される前は、物流の主役は船運でした。北上川では石巻に、利根川では銚子に内陸の物資が集中し、またそこを起点として内陸へさまざまな物資が運ばれていきました。最上川では河口港の酒田が起点です。最上川流域の各地から、米、紅花、大豆、青苧(あおそ-からむし、繊維の原料)などが川を下って酒田に運ばれ、北前船で京、大阪に運ばれました。逆に酒田からは、茶、塩などが上流の各地に運ばれました。
特に塩は重要でした。日本海側でも製塩は行われましたが、天候の悪い時期が多く、塩田による大量生産は困難でした。塩は主に大生産地である瀬戸内地方(赤穂など)から運ばざるをえなかったのです。そして川沿いにある川港で荷下ろしされ、さらに内陸に牛馬で運ばれていきました。
最上川の水運は古くからおこなわれていたようですが、江戸時代以前は大石田までが限界でした。そこから上流は、いわゆる三難所―碁点、三瀬、隼瀬で河床に岩盤が露出し、舟が通行できないためでした。この河床を開削し水深を確保しようとしたのが最上義光です。
この開削工事以降、川船の運行は徐々に上流にのび、船津(山形市)、左沢、宮(長井市)と川港が開かれ、最終的には高畑まで伸びました。当時の川船は平田舟と呼ばれる、帆と櫂を使ったものでしたが、上流では小鵜飼舟と呼ばれる小型の船を使ったようです。
これらの船はもちろんモーターもエンジンもないので、下りはいいものの、上りは大変です。人力によるけん引も多かったようで、大石田―酒田を往復するには天候によって40日から60日もかかったそうです。とはいえ、人力や牛馬による運搬に比べ、大量に荷が運べるのではるかに効率が良かったのでしょう。それにしてもあの渓谷をよく帆と人力で運行したものだと感心させられます。

昭和20年代の最上川船運の様子(清川公民館蔵)
酒田からは北前船によって主に上方(大阪など)へ運ばれたのですが、この航路を完成させたのが河村瑞賢です。河村瑞賢は、江戸時代初期に商人でありながら幕府の土木工事、治水、築港、治山工事を手掛けた異才の人物です。
彼が完成させた東回り航路(酒田~津軽海峡~太平洋~銚子~江戸)、西回り航路(酒田~日本海~瀬戸内海~江戸)のうち、西回り航路はさらに蝦夷地(北海道)まで伸び、それを担う船が北前船と呼ばれました。東回り航路は何といっても黒潮という難物があり、潮の流れに逆らって進まなければならず、さらに犬吠埼沖という船の難所がありました。一方西回り航路は冬の時期をのぞけば安定した運行ができ、途中の寄港地も多く、圧倒的にこちらが利用されました。東回り航路は東北太平洋側の諸藩が江戸に米を運ぶのに限定されました。

東回り航路と西回り航路
酒田は北前船の寄港地として大変な繁栄を迎えたのですが、酒田と言えば本間様です。さまざまな物品を扱う問屋から出発した本間家は、庄内藩酒井家と結び、抜群の財力を持つ商人であり、北前船の船主であり、さらに最盛期には日本一の大地主と呼ばれました。最盛期の土地所有面積はおよそ3,000町(≒3,000ha)、だいたい1町から10石のコメが取れたと言われますので、土地全てが田であれば3万石の大名に相当します。
本間家はただの商人ではなく、酒井家、上杉家への融資による援助(もちろんもうけはあるのですが)、庄内砂丘の植林による飛砂の防止、繰り返す飢饉に備えた備蓄米の蓄積と放出など、社会事業家としての一面をあわせ持っていました。特に第三代本間光丘(みつおか)は、地元の人たちに感謝され酒田市の光丘神社に祭られています。
江戸時代の商人は(すべてとは言いませんが)、三井家の家訓である「三方よし」、売り手よし、買い手よし、世間よし、という商売は当事者だけでなく世間のためにならなければならない、という倫理観を持っていました。これは明治期の渋沢栄一にもつながる感覚だと思います。現代のグローバル・キャピタリストに爪の垢でも煎じて飲ませたいものです。