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最上川についていろいろ(4)最上川流域の地形と水害の特徴

2026年06月30日

 記録が残っている最上川の水害で、最大の被害を出したと言われているのが昭和42年の羽越豪雨です。現在の流域治水プロジェクトでは、この水害時の流量の1.2倍を想定最大流量として治水計画の基準としています。

 羽越豪雨という名前のとおり、羽=山形県、越=新潟県に、死者108名を含む甚大な被害が発生しました。昭和42年8月26日、日本海から東西にのびる前線に南から暖かく湿った大気が流れ込み、豪雨がもたらされました。特に飯豊、朝日山系を中心に記録的な豪雨となり、最上川、荒川、三面川、胎内川、加治川流域に過去最大の水害をもたらすことになったのです。新潟県関川村で36時間雨量が700mm、胎内第1ダムで645mm/24時間、山形県小国町で532mm/24時間などの降水量となりました。

 新潟県下越地方の被害が特に多かったのですが、山形県では米沢を中心とした置賜地方に被害が集中しました。その中でも小国町の被害が甚大でしたが、荒川だけでなく、白川、野川、寒河江川が氾濫し、合流した最上川でも白鷹町でも堤防を越流し、浸水被害が発生しています。この水害を契機に、国交省(当時は建設省)、山形県の水害対策が見直され、ダム、遊水地、堤防改修が大きく進むことになります。

 下の図①は、羽越豪雨時の等雨量線図です。図②は(1)で述べた令和6年7月水害の等雨量線図です。こちらは県北部、最上川北側の山地(出羽山地・青沢越周辺)から新庄周辺に雨量が集中しています。

   図① 羽越豪雨等雨量線図(国交省湯沢河川国道事務所より)

      図② 令和6年7月水害等雨量線図(山形地方気象台より)

 最上川流域の水害の特徴は、地域差が大きいということです。この原因の一つは雨の降り方です。東北地方、特に日本海側では西日本や東日本太平洋側に比べ、台風による広範囲の豪雨は少なく、多くは停滞した前線が刺激されることと温帯低気圧で発生します。梅雨末期の豪雨が典型で、今述べた二つの水害もこのパターンです。このため東西にのびた前線に沿って比較的狭い範囲に雨が集中することが多いのです。

 もうひとつは地形的要因です。山形県という名のとおり、山形県は周囲を山々に囲まれています。北から鳥海山・丁山地、東に奥羽山脈、南は吾妻・飯豊山系に囲まれ(西は日本海)、中央に出羽山地、月山・朝日山系、さらに白鷹山があります。米沢、長井、山形・尾花沢、新庄という大きな盆地と庄内平野が、これらの山々によって複雑に地域が区分され、狭窄部がそれぞれを結んでいます。

   最上川流域図(「日本の自然-東北」岩波書店より引用)

 最上川はひとつの流れなので上流の雨は下流に影響するのですが、その被害は狭窄部でブロック化されます。逆に言えば、狭窄部は下流の被害を軽減するバリアの役割を果たしていると見ることができます。

 最下流部、河口にあたる庄内平野は上、中流域の水害とは少し趣が違っています。平野を流れる最上川は、今では堤防によって流路を固定されていますが、近代的な土木技術がなかった明治以前は、大氾濫のたびに大きく流路を変え集落そのものを飲み込みました。あとで詳しく述べますが、河口にある酒田市さえ、最上川の流路変更によってその場所を変えています。

 最上川の治水は上、中、下流の地域ごとにおこなわれ、流域一帯の治水事業が行われることがありませんでした。これは山形県の歴史的経緯も影響しているかもしれません。

 山形県は戦国末期に最上氏が領有し、江戸時代初期には57万石の大大名になりますが、1622年に改易され、その後は中小大名と、幕府天領(直轄地)に分割され支配されました。もっとも大きく安定していたのが庄内藩酒井家の17万石、次いで米沢藩上杉家の15万石、それ以下は新庄藩、山形藩、天童藩など2万~6万石の小大名です。最もひどいのは山形藩で、石高こそ5万石ですが、幕府閣僚から失脚した大名の左遷先となり、実に15家も変わっています。これでは継続した治水事業など期待しようがありません。これらの細分化した藩の支配が近世の山形県の分散化をさらに進めたのかもしれません。

 話が戻りますが、昭和42年羽越豪雨が、こうした地域ごとの治水対策から最上川を一体としてとらえる契機となりました。上流部での白川ダム、長井ダム、寒河江ダムなどのダム建設、大久保遊水地の建設はこの結果生まれたものです。現在進められている最上川の流域治水も、河川全体を一体としてとらえ、治水に取り組もうというものです。今後の成果に期待したいと思います。