記録が残っている最上川の水害で、最大の被害を出したと言われているのが昭和42年の羽越豪雨です。現在の流域治水プロジェクトでは、この水害時の流量の1.2倍を想定最大流量として治水計画の基準としています。
羽越豪雨という名前のとおり、羽=山形県、越=新潟県に、死者108名を含む甚大な被害が発生しました。昭和42年8月26日、日本海から東西にのびる前線に南から暖かく湿った大気が流れ込み、豪雨がもたらされました。特に飯豊、朝日山系を中心に記録的な豪雨となり、最上川、荒川、三面川、胎内川、加治川流域に過去最大の水害をもたらすことになったのです。新潟県関川村で36時間雨量が700mm、胎内第1ダムで645mm/24時間、山形県小国町で532mm/24時間などの降水量となりました。
新潟県下越地方の被害が特に多かったのですが、山形県では米沢を中心とした置賜地方に被害が集中しました。その中でも小国町の被害が甚大でしたが、荒川だけでなく、白川、野川、寒河江川が氾濫し、合流した最上川でも白鷹町でも堤防を越流し、浸水被害が発生しています。この水害を契機に、国交省(当時は建設省)、山形県の水害対策が見直され、ダム、遊水地、堤防改修が大きく進むことになります。
下の図①は、羽越豪雨時の等雨量線図です。図②は(1)で述べた令和6年7月水害の等雨量線図です。こちらは県北部、最上川北側の山地(出羽山地・青沢越周辺)から新庄周辺に雨量が集中しています。

図① 羽越豪雨等雨量線図(国交省湯沢河川国道事務所より)

図② 令和6年7月水害等雨量線図(山形地方気象台より)
最上川流域の水害の特徴は、地域差が大きいということです。この原因の一つは雨の降り方です。東北地方、特に日本海側では西日本や東日本太平洋側に比べ、台風による広範囲の豪雨は少なく、多くは停滞した前線が刺激されることと温帯低気圧で発生します。梅雨末期の豪雨が典型で、今述べた二つの水害もこのパターンです。このため東西にのびた前線に沿って比較的狭い範囲に雨が集中することが多いのです。
もうひとつは地形的要因です。山形県という名のとおり、山形県は周囲を山々に囲まれています。北から鳥海山・丁山地、東に奥羽山脈、南は吾妻・飯豊山系に囲まれ(西は日本海)、中央に出羽山地、月山・朝日山系、さらに白鷹山があります。米沢、長井、山形・尾花沢、新庄という大きな盆地と庄内平野が、これらの山々によって複雑に地域が区分され、狭窄部がそれぞれを結んでいます。

最上川流域図(「日本の自然-東北」岩波書店より引用)
最上川はひとつの流れなので上流の雨は下流に影響するのですが、その被害は狭窄部でブロック化されます。逆に言えば、狭窄部は下流の被害を軽減するバリアの役割を果たしていると見ることができます。
最下流部、河口にあたる庄内平野は上、中流域の水害とは少し趣が違っています。平野を流れる最上川は、今では堤防によって流路を固定されていますが、近代的な土木技術がなかった明治以前は、大氾濫のたびに大きく流路を変え集落そのものを飲み込みました。あとで詳しく述べますが、河口にある酒田市さえ、最上川の流路変更によってその場所を変えています。
最上川の治水は上、中、下流の地域ごとにおこなわれ、流域一帯の治水事業が行われることがありませんでした。これは山形県の歴史的経緯も影響しているかもしれません。
山形県は戦国末期に最上氏が領有し、江戸時代初期には57万石の大大名になりますが、1622年に改易され、その後は中小大名と、幕府天領(直轄地)に分割され支配されました。もっとも大きく安定していたのが庄内藩酒井家の17万石、次いで米沢藩上杉家の15万石、それ以下は新庄藩、山形藩、天童藩など2万~6万石の小大名です。最もひどいのは山形藩で、石高こそ5万石ですが、幕府閣僚から失脚した大名の左遷先となり、実に15家も変わっています。これでは継続した治水事業など期待しようがありません。これらの細分化した藩の支配が近世の山形県の分散化をさらに進めたのかもしれません。
話が戻りますが、昭和42年羽越豪雨が、こうした地域ごとの治水対策から最上川を一体としてとらえる契機となりました。上流部での白川ダム、長井ダム、寒河江ダムなどのダム建設、大久保遊水地の建設はこの結果生まれたものです。現在進められている最上川の流域治水も、河川全体を一体としてとらえ、治水に取り組もうというものです。今後の成果に期待したいと思います。
最上川はいつからあるのか?「悠久の川の流れ」という言葉がありますが、実はそれほど長い歴史を持っているわけではありません。もちろんそれは地質年代を尺度にした場合で、人間の時間を尺度にすれば大変に長いのですが。
東北地方の多くが地上に姿を現すのは、中新世末期から鮮新世(800万年~600万年前)以降で、それまでは海中にあったのでそもそも最上川は存在しません。それ以前は、北上山地、阿武隈山地、飯豊・朝日山地が島としてあったにすぎません。
太平洋プレートの圧縮力により奥羽山脈、出羽山地が大きく隆起し、現在のような姿になるのは新第三紀更新世以降、つまり300万年前以降です。山形県内で活断層とされている断層帯は、新庄盆地の東西断層帯、山形盆地断層帯、長井盆地西縁断層帯、庄内盆地東縁断層帯などです。これらの断層帯によって山地と盆地・平野が区切られ、山地が隆起、盆地・平野が沈降しています。
これらの断層帯は、東北地方が海の上に姿を現した時代から継続的に活動してきたはずです。この断層活動により、奥羽山脈、出羽山地が隆起し、米沢盆地~新庄盆地、庄内平野は沈降し、そこに隆起した山地が浸食を受け、大量の土砂が流入し、平地が形成されました。
下の図は山形県域の過去の海と陸地の想定分布図です。400万年前でもまだ出羽山地ははっきりと見えません。

山形県域の過去の陸・海の想定分布図
(東北地質調査業協会編「山形県の地質」より)
これを見ると、山地の隆起に伴って海域が後退し、それを追いかけるように支流が合流し、最上川が出来上がってきたことが想像できます。
下の図は最上川流域の標高と距離を表した図です。狭窄部では勾配が急になり、盆地では緩くなっていることがわかります。氾濫を起こすということは、そこで水が滞留し、土砂を沈降させ平地を作るということです。狭窄部こそが上流の盆地=平地を作る要因です。しかしそこに人が住み、生活し、田畑を作るようになると災害と呼ばれます。

上流の盆地からしだいに陸化し、最後に陸化したのが庄内平野です。庄内平野も新潟平野などと同様、かつては広く遠浅な海でした。氷期-間氷期の繰り返しの中で、海になったり陸になったりをくりかえしながら、最上川が運ぶ大量の土砂で埋め立てられていきます。
最終氷期終了後(およそ1万年前)、現在の海水準-10mまで上昇してきた7,000年前から5,000年前に、砂州が現在の海岸線付近に形成され、古庄内湾が出来上がったと考えられています。最上川は湾を埋め立て、およそ4,000年前にほぼ現在の海水準に達しました。砂州は砂丘となり、庄内平野は最上川の後背湿地と赤川、日向川、月光川の扇状地になりました。この当時、人が生活できたのは扇状地に限られていたと思われます。1,200年前からは、各河川は沖積平野面を下刻する傾向がある、つまり土砂の堆積が十分に進んだ、と考えられています。
庄内平野の形成を考えるうえで重要なのは大量の土砂の堆積です。山は隆起していくので、浸食量もそれに応じて大きくなるのですが、その中でも重要なのは山の斜面の崩壊による土砂の供給です。最上川流域は日本でも有数の地すべり地帯です。
最上川流域の岩盤は、かつて日本海にあったころに堆積した泥が固まった泥岩(でいがん)と、海底火山の噴火でできた凝灰岩(ぎょうかいがん)、溶岩から主にできています。泥岩は地すべりの素因になりやすい岩盤です。そしてもう一つ、火山の存在です。火山からの噴出物は未固結な地層となり、頻繁に崩壊を起こします。
月山の北側から流れてくる立谷沢川の河原には、巨大な礫がごろごろしており、その荒々しさに驚かされます。自分の経験で恐縮ですが、私は立谷沢川上流の濁沢の治山事業のため、崩壊地の調査に携わったことがあります。濁沢という名前のとおり、雨が降ると白い濁流が流れ下り、前年に完成したばかりの巨大な砂防堰堤が満杯になり、濁流で破壊された堰堤もありました。土石流のすごさに驚かされました。
下の図は濁沢付近の地形図です。左下のなめらかな斜面は月山山頂付近の弥陀ヶ原です。ここはまだ浸食が及んでいません。濁沢左岸は巨大な崩壊地となっていて、ここから出る岩塊が立谷沢川まで土石流として流れ下っています。

立谷沢川上流の地形図(地理院地図を編集)
もう一つ、大蔵村の銅山川周辺の地形図も上げます。下湯ノ台、今小屋野という地名のあるあたりは平坦面が広がっていますが、銅山川のまわりは激しい崩壊が見られます。南山という地名のところは何段にもわたって、崩落涯があり川に向かって崩れ落ちています。平坦面は肘折火山がおよそ2万年前に噴出した火砕流台地です。火砕流は基盤の泥岩の上に堆積しており、泥岩と火砕流堆物の境ですべりが発生しています。大蔵村はほとんど一村全てが地すべり地と言っても過言ではありません。

山形県大蔵村・銅山川周辺の地形図(地理院地図を編集)
大規模な地すべり地は国営事業として砂防工事が行われ、概成したところもありますが、月山南麓の志津地区や七五三掛(しめかけ)地区では、現在も国の直轄砂防工事が続いています。
豪雨は氾濫被害だけではなく土砂災害も引き起こします。これも最上川流域が形成されてきた過程で作られた地質的要因によって起きています。庄内平野を肥沃な大地に変えた土砂は、一方で災害を引き起こす原因でもあるのです。
最上川の流路を上流から見ていきましょう。

最上川の原流は、松川の最上流部、天元台の東側、西吾妻山の火焔の滝とされていますが、これについては異説がいろいろあり、ここが最上流と言えるところは確定できません。米沢盆地で多くの支流が合流し、かつては長井市で白川が合流してから最上川と呼ばれていましたが、現在は米沢市街を流れる松川が最上川とされています。このため松川の源流が最上川の源流としたと考えられます。
しかし源流部までの長さでは、吾妻山系西大嶺の北斜面から始まる鬼面川(おものがわ)の支流大樽川、あるいは飯豊山系三国岳を源流とする白川の方が長い、とする説もあります。
いずれにしても、吾妻山系、飯豊山系の広い地域の沢の水が合流して最上川になっています。
松川、鬼面川、羽黒川など多くの川が扇状地をつくり米沢盆地で合流します。そして河井山の狭窄部を抜けて白川と合流し、長井盆地に入ります。
ところでこの河井山狭窄部は本当に不思議な地形をしています。地形図を下にあげますが、狭窄部(谷)の南(左岸)にある小さな山が河井山、北(右岸)のやや大きな山が愛宕山です。どちらも花崗岩でできた山で連続した岩体と思われます。河井山の南にも低い丘陵がありますが、ほぼ平坦地と言っていい場所です。なぜ最上川はわざわざ国道287号線やJR米坂線が走っている平坦地を避けて、硬い花崗岩の山を穿って流れたのでしょうか。謎です。これは面白い話題なのですが、突っ込むと大変長くなるので、次に進みましょう。

河井山狭窄部の地形図
長井盆地では西側の朝日山地から野川や草岡川、実渕川などの中小河川が扇状地、沖積錐を作って流れ込みます。これらの川が運ぶ堆積物に押され、最上川は東側によって流れています。
長井盆地北端の白鷹町荒砥から大江町左沢(あてらざわ)まで、荒砥狭窄部と呼ばれる(五十川渓谷とも呼ばれます)約30kmの渓谷に入ります。最上川本流にある唯一のダムである上郷ダムまでは、国道287号線と並行しますが、ほとんど平地らしい平地のない狭い渓谷です。上郷ダムから左沢(あてらざわ-難読地名です)までは、やや広い河谷で、比高30m~40mの段丘を掘り込んだ流路を流れていきます。ここには何段かの段丘があり、朝日町の集落はほぼ一番高い段丘面に集まっています。
左沢の大屈曲を東に曲がると山形盆地です。山形盆地は山形市、寒河江市、天童市、村山市などがある山形県の行政、経済の中心地であり、一連の盆地の中でも最大のものです。山形盆地もまた、西側の朝日山系からの寒河江川、東側蔵王山系からの馬見ヶ崎川、立谷川、村山野川などが扇状地をつくって流れ込みます。この扇状地を利用して、サクランボ、リンゴなどの果樹がつくられ、果樹王国山形を支えています。
山形盆地と尾花沢盆地の境にあるのが大淀の大屈曲です。地形図を見るとわかるとおり、ここで最上川はヘアピンカーブを描いて180度曲がっています。この大屈曲とその先の狭窄部により、上流部は度重なる氾濫被害を受けています。大淀の上流の大久保地区には遊水地が建設され(下写真参照)、現在は大淀の屈曲部をショートカットするトンネルによる放水路が計画されています。

大淀の屈曲部

令和2年7月洪水時の大久保遊水地
ここから最上川は大蔵村本合海まで段丘面を掘削しながら大きく蛇行しています。段丘面を含めた河谷は比較的広いのですが、比高20~30mの段丘外の下を流れる河道は狭く、低い渓谷のようです。
大蔵村本合海(松尾芭蕉が舟下りで乗船した場所)付近で、最上町から来る小国川、肘折からの銅山川、北の丁山地から来る鮭川が合流し、最後の狭窄部である最上峡に入ります。入口の古口から出口の清川まで、約12kmの最上峡は出羽山地中軸部を横断します。比高300mの急崖が続き、雄大な景観を見ることができる最上川観光のハイライトです。

最上峡(戸沢村ホームページから)
国道47号線とJR陸羽西線(2024年7月豪雨の土砂崩れで運行中止中です)が走る左岸(南側)は多少の平地はありますが、右岸(北側)には、全く道路も民家もありません。観光名所である白糸の滝だけでなく、融雪期や雨の後には比高100mあまりの滝があちこちに現れます。戸沢村古口から草薙までの間は最上川舟下りが行われます。
最上峡を抜けると清川で月山から流れて来る立谷沢川と合流し、一気に視界が開け、庄内平野に出ます。ここから最上川河口までおよそ30km、羽黒山から来る藤島川や京田川といった小河川以外合流する川はありません。かつては月山・朝日山系から流下する赤川が酒田で合流していましたが、合流点付近で頻発する洪水を防ぐため、昭和2年に砂丘を切りひらいて日本海に直接放流する新川を開削し、独立した河川になりました。
庄内平野は最上川を境として、南側が田川地方、北側を塩飽地方と呼びます。かつては川南、川北と呼ばれ、文化、風習の違いもあったそうです。塩飽地方(現在の行政区で言うと酒田市北部と遊佐町)は出羽山地からの新井田川、荒瀬川(日向川の支流)、鳥海山からの日向川、月光川の流域です。庄内地方を特徴づける風景は広大な田園と、月山、鳥海山です。川南地方は月山が、川北地方は鳥海山が身近に感じられるかもしれません。

庄内平野から見た月山(庄内町ホームページから)
昨年12月22日、山形県戸沢村で、2024年7月の集中豪雨で甚大な浸水被害を受けた同村蔵岡地区の集団移転に向けた第3回住民説明会があり、集団移転事業に同地区の住民69世帯全員が同意し、約7割が村が示した場所(最上川対岸の高台地区)への移転を希望している、という報道がありました(2025年12月24日朝日新聞デジタル)。戸沢村はこれで防災集団移転の事業要件を満たしたので、今後事業計画を策定し、新年度に国土交通大臣に提出したい、と述べています。
戸沢村蔵岡地区は、新庄盆地をかすめるように大きく屈曲して西に流れる最上川が、最上峡に入る手前にあります。隣の古口地区とともに過去に何度も浸水被害があり、最上川の堤防を兼ねる国道47号線と、背後にある長さ約1kmの輪中提(2023年完成)によって守られるはずでした。しかし想定を超える雨量によって、本流側の堤防を越えた最上川の流れに集落が飲み込まれてしまいました。

蔵岡地区の輪中提整備計画(最上川流域治水プロジェクトから抜粋)

平成30年水害時の蔵岡地区の状況
国交省と山形県、県内各市町村は令和2年に最上川流域治水協議会を作り、最上川の総合的な治水に取り組んでいます。流域治水については、当ブログ2021年8月30日の「流域治水とは何か」で述べましたが、2021年(令和3年)4月28日に成立した「流域治水法」を背景にしています。気候変動による降雨の激化と、都市化と人口減少という日本社会の変化に対し、これまでの堤防、ダム、遊水地というハード面での対策だけでなく、ソフト面の対策を含めた総合的な対策を、ひとつの流域の前関係者が協議し、作り上げていくというものです。
最上川はひとつの水系で山形県のほぼ4分の3を占めているので、ほとんどすべての市町村を含んだ協議会になっており、最上川の上、中、下流域、各地区ブロックの協議会がさらに構成されています。
この流域治水プロジェクトは多岐にわたっており、ここで詳細に述べる余裕はありませんが、対策のレベルは戦後最大の洪水を記録した昭和42年、44年洪水のおよそ1.2倍の降水量に対応できるものとしています。蔵岡地区の輪中提はこの基準から設計されたものでしたが、2024年水害はこれを超えるものでした。
2024年7月24日から27日にかけて、秋田、山形県境付近を中心に記録的な大雨となり、山形県北部で線状降水帯が発生し、大雨特別警報が計2回発表されました。多くの雨量観測所では観測史上1位を記録し、秋田県子吉川水系の大清水(由利本荘市)では559mm、最上川水系の差首鍋(真室川町)で403mm、新庄で400mmを記録しています。
秋田県の子吉川、山形県の鮭川などの最上川中下流域、酒田方面の日向川、荒瀬川で氾濫、浸水害、土砂災害が発生しました。この水害による死者は5名、この中には救助要請を受けて出動し、殉職した2名の警察官も含まれています。全壊、半壊から床下浸水を含めた住宅被害は、秋田県で311棟、山形県で1,779棟、計2,090棟となっています。
ともかく記録的な豪雨だったことがこの水害の原因ですが、戸沢村古口、蔵岡地区の地形的位置も重要です。蔵岡地区は右支流の鮭川、古口地区は左支流の角川が合流する地点にあたります。もう少し上流には肘折からの銅山川、最上町からの小国川も合流しています。つまりここは最上川の大きな支流が合流し、最上峡に流れ込む、氾濫が非常に起きやすい場所なのです。

蔵岡地区の位置(地理院地図を編集)
松尾芭蕉が「五月雨を集めてはやし最上川」と詠み、日本三大急流と呼ばれる最上川ですが(あとの二つは富士川と球磨川)、特別に急流なわけではありません。ごく普通の平均傾斜の川と言っていいと思います。ただ、途中に碁点、三ケ瀬、隼の瀬といった難所があったために急流というイメージができたと思われます。
最上川は流路長229km、流域面積7,040km2で、流路長で日本第7位、流域面積で第9位の大河川です。何より山形県の面積(9,323km2)の75%を占めていて、山形県はほぼ最上川の県と言っていいくらいです。かつては最上川の支流であった赤川を含めると85%にもなります。
山形県で最上川以外の流域にある川は、小国町を流れる荒川、庄内地方で鳥海山を源流とする月光川、日向川、月山・朝日山系を源流とする赤川しかありません。荒川は飯豊・朝日山系を源流としていますが、河口は新潟県村上市であり、管轄は北陸地方整備局になっています。
最上川の大きな特徴は、盆地と狭窄部を連ねて流れていることです。上流から米沢盆地、長井盆地、山形盆地、尾花沢盆地、新庄盆地、庄内平野とそれぞれの間にある狭窄部です。河井山狭窄部、荒砥狭窄部、大淀狭窄部、最上峡が盆地を繋ぎます。それぞれの盆地には支流が合流し、増水した流れが狭窄部の入り口で氾濫を起こします。これらの場所に応じて最上川は違った顔を見せてくれます。
最上川は、歴史、文化、経済、物流など、さまざまな面で山形県において非常に重要な位置を占めてきました。こんなことにも触れながら最上川についていろいろ述べていきたいと思います。
昨年12月8日深夜、青森県東方沖を震源とするM7.4の地震がありました。青森県の太平洋側を中心に最大震度6強の地震でしたが、幸い死亡者はおらず、けが人も50数名、建物等の被害も震度の大きさの割には比較的少なくすみました。この地震で「後発地震注意情報」という耳慣れない情報が気象庁、内閣府から発表されました。
この注意情報の対象は、北海道から千葉県までの7道県、182の市町村に及んでいます。国は事前の避難は求めないが、地震の発生から1週間程度大規模な地震の発生に注意し、日ごろからの備えを見直し、すぐに避難できるよう備えておくことを求めました。
「北海道・三陸沖後発地震情報」は、日本海溝・千島海溝沿いの領域で規模の大きな地震が発生すると、その影響を受けて新たな大規模地震が発生する可能性が相対的に高まると考えられているため注意を呼び掛けるとしています。2011年の東日本大震災の時にも、その数日前にM7.4の先発地震が発生しています。こうした前例からの発表でしょう。
昨年8月8日には日向灘を震源とするM7.1の地震があり、はじめて「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意報)」が発表されました。幸い南海トラフ地震は現在も発生していません。今回の「北海道・三陸沖後発地震」も発生する可能性は100分の1程度だと言われ、実際に発生することもありませんでした。
そんなわけで私の知人にも「地震学者の言うことなんかあてにならん」という人もいます。「もう50年も前から東海地震が起きると言われて、地震が終わったら静岡に帰ろうと思っていたけど、こんな年になってしまってもう帰れない」と言っている静岡出身の人もいました。地震予知は難しい、というよりいつ、どこで、どの程度の地震が起きるのかという一番知りたいことを現在の科学で予知するのは不可能です。だからと言って地震学を中心とした地球科学が役に立たない、というのも無理無体というものです。
昨年の7月に南西諸島のトカラ列島周辺で群発地震がありました。悪石島や小宝島といったふだん聞くことの少ない離島の地名も耳慣れたものになりました。一般的に群発地震は大地震になりにくいとされていますが、一昨年1月の能登半島地震は群発地震から始まり、大地震になってしまいました。現在はほぼ終息しているものの、トカラ列島の群発地震はどうなのか気になったので、科学者がどう見ているのか新聞などの記事から調べてみました。
学者によってプレート境界の動きに起因する地震とする説と、マグマの動きによる地震とする説がありました。
熊本大学の横瀬久芳准教授は、フィリピン海プレートの琉球海溝への沈み込みのメカニズムから説明しています。(2025年6月27日読売新聞オンライン版)
長大な琉球弧の中で群発地震が起きているのは悪石島、小宝島周辺だけです。この海域には巨大な海底山脈である大東海嶺や奄美海台があり、ユーラシアプレート側の地殻を押し上げ複雑なひずみを生じさせ、そのひずみが大きな横ずれ断層を生み、地殻内の活断層として活動しています。群発地震はプレートが沈み込む地点から離れているが、これはすでに沈み込んだ奄美海台の先頭部分が地震発生に影響しているためだ、と説明しています。

フィリピン海プレートの動きとトカラ列島周辺の海底地形
(Google Mapを編集)

横瀬准教授による地震発生メカニズム(読売新聞オンラインから)
東大地震研究所の笠原順三名誉教授は、地下からのマグマの上昇に注目して解説しています。(2025年7月3日FNNニュース)
フィリピン海プレートに乗った軟らかい堆積物が海水を吸い込んで地下に沈み込むと、地下深部で高温高圧にさらされ、水分が放出されます。この水が岩石の融点を下げマグマが発生します。7月3日の最大震度6の地震では震源が浅くなっていることから、マグマが上昇し地下のき裂に入り込み、裂け目を広げ地震が発生しているのではないか、と説明していました。
また、京大防災研究所の西村卓也教授も、「地下のマグマの動きが周辺の岩盤を割ったり、周辺の断層を刺激して群発地震につながっているのではないか」と指摘しています。(2025年7月8日TBSNEWS)
視点は違っているものの、「プレート境界に特有の原因で起きている」と見ていることは共通しています。
今回のトカラ列島群発地震では、7月3日にM5.5、最大震度6弱の地震がありました。M(マグニチュード)が小さいわりに震度が大きかったのは震源が浅く、住民がいる場所に近いという理由によります。7月4日からは悪石島、小宝島の住民が鹿児島市に避難する事態になりました。すでに島に帰還されていますが、小宝島では小中学生の離島留学を進めるなど、人口減少を食い止める取り組みが積極的に進められています。島の人たちの安定した生活を願わずにはいられません。
現在の地球科学で地震の発生を予知することは無理だ、と書きましたが、これは多くの地震学者も認めているところです。ただ、地震がプレートの運動で起きていることはほとんどの地球科学者が認めています。「プレートテクトニクスはもはや時代遅れで、間違っている」と主張する少数の科学者もいますが、それは地震予知の道から遠ざかるものです。
明治17年(1884年)に始まった最初の天気予報は、「全国一般風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」というもので、全国の予報をこの一文で表しました。今風に言えば「全国の風の向きはいろいろです。天気は雨がちですが、変わりやすいでしょう」これではなんだかよく分かりませんよね。当時の人は気象台の予報より、下駄を転がしたほうがましだ、と言い合ったそうです。
気象も地震も非線形な複雑系の現象であり、単純な法則に落とし込んで理解することはできません。それでも140年余りの研究とデータの積み重ね、そして何より気象衛星の力により現在では相当程度に予知・予測が可能になりました。毎日の気象情報で、市町村ごとの天気が詳細に、かつほぼ正確に出されています。
地球内部の現象は気象よりもはるかに見えにくいものです(地球内部だからそもそも見えない)。現在の地震学では、起きた現象については非常に正確にわかっています。どこで(震源)、どの程度の広さが(震源域)、どの方向に、どの程度動いたのかはわかります。しかし、では次に、いつ、どこで、どのくらい動くのかはまだ分かりません。これがわかるようになるにはまだまだ時間がかかるでしょう。しかし科学はそうして進歩してきたのです。
何度も言われていますが、日本(だけでなくプレート収束帯の地域)では、いつどこで地震が起きてもおかしくありません。地震情報に注意しながら不断の備えをして生活していくしかないのです。家具の固定や非常食、水の確保など耳タコになるほど注意事項が言われています。今はそれに尽きると思います。
とはいえ、地震学者の皆さん、頑張ってください。期待しています。