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最上川についていろいろ(6)庄内平野の開拓と利水

2026年08月20日

 (3)でも述べましたが、庄内平野は砂州に閉じ込められた潟湖が、最上川が運ぶ土砂によって埋め立てられた海岸平野であり、最上川、赤川、日向川、月光川の三角州が重ね合ってできています。現在の庄内平野は全国でも有数の米どころで、美しい田園風景が広がっていますが、昔からそうだったわけではありません。

 当ブログで新潟平野や石狩平野などの開拓の歴史を述べてきましたが、庄内平野も同じような(各地域の違いはありますが)自然、地形条件との闘いがありました。

 庄内平野の開発と水利用が本格的に始まったのは、最上義光の家臣であり、狩川城主であった北楯大学による北楯大堰の開削に始まります。それまでは山水を利用した小規模な田圃があるだけでした。北楯大堰は清川で最上川に合流する立谷沢川に堰を設けて取水し、庄内平野南部に水を供給し、大規模な開拓を可能にしました。北楯大堰の総延長は32km、5,000haの新田が開発され、88の村が開かれたと伝わっています。

                現在の北楯大堰

 しかし1945年以前の水利用は最上川支流の中小河川(藤島川や京田川など)に限られ、最上川本川からの取水はできませんでした。それは最上川が氾濫時に流路を変え、当時の技術では制御できなかったこと、また、平常時は水面が低く、自然流下で取水できる堰を設けることができなかったためです。

 ここで少し庄内平野の最上川の流れを見てみましょう。現在の流れは堤防で固定され、比較的まっすぐに流れていますが、かつては大氾濫によって流路を大きく変えていました。古い時代の流路ははっきりしませんが、古文書によると現在の酒田北港付近、古湊を河口にしていた時代もあったようです。また、酒田市も現在の市街地ではなく、川南の宮野浦地区にあり、ここが最上川の河口港でした。最上川の流れの変更にあわせて、1500年頃から1600年頃にかけて酒田の街が現在の位置に移動したと伝わっています。

 下の図は慶安3年(1650年)から3年間かけて行われた、最上川改修の図面です。大きく蛇行していた流路をショートカットして新川を開削したことがわかります。この図面を昭和12年発行の旧版地形図から読図すると以下のようになります。現在の流路との違いがよく分かります。

           元禄2年(1689年)ごろの最上川

       旧版地形図(昭和12年)に加筆した最上川旧流路

 酒田は最上川の最下流なので、上流の盆地や狭窄部で流量が調節されるとはいえ、上流で降った雨はすべて流れてきます。そして河口付近で赤川が合流していました。河口付近の砂丘もまた狭窄部と言えます。したがってここでの氾濫は地形的な宿命と言っていいものです。

 明治以降におこなわれた大事業は、ひとつは酒田河口と酒田港の分離です。最上川が運ぶ土砂によって河口港である酒田港の水深が浅くなり、港としての機能が果たせなくなることを防ぐため、背割堤を築き分離したのです。秋田の雄物川河口でも同様の工事が行われています。雄物川の河口が土崎港(今の秋田港)でしたが、放水路(現在の雄物川)を開削し、秋田港の水深を確保しています。

 もうひとつが昭和2年に完成した赤川放水路の開削です。これ以前は赤川に京田川、大山川が合流し、河口付近で最上川に合流していました。日本海に向かう赤川の進路が砂丘に妨害され、最上川に合流するしかなかったのです。このため最上川の洪水が赤川、京田川、大山川に逆流し、その流域でも氾濫を起こします。大正10年の大洪水をきっかけに砂丘を開削し、赤川を分離したのです。現在では赤川は独立した川になり、京田川は逆流を起こさないように最上川と背割堤で分離されています。

 こうした治水対策を行って、初めて戦後の利水事業が可能になったのです。国営農業水利事業として、現在は最上川本流からの取水が行われています。川北には草薙頭首工、川南は最上川取水口から直接取水し、それぞれが広い庄内平野に配水されています。そしてその安定した取水を可能にするために作られてたのが、立谷沢川との合流点の少し上流にある、さみだれ大堰です。

     草薙頭首工(「水土里ネット日向川」から引用)

      さみだれ大堰(国交省酒田河川国道事務所より引用)

 さみだれ大堰はゴムを利用した可動堰です。ラバーダムと呼ばれますが、満水時にはゴムを収縮して水をそのまま流し、渇水時にはゴムを膨らませてゲートを上げ、川の水位を上げることができます。ゴムの収縮時にはゲートは見えず、ただの橋のように見えます。

 庄内平野は月山、鳥海山の眺望を持ち、四季折々の美しい姿を見せてくれます。稲穂が風に揺れているときはなおさらです。この美しい景観も長い先人たちの自然と地形、そして水害との戦いの後にあることを知ってほしいと思っています。


令和8年度 安全大会を開催しました

2026年08月17日

 8月7日(金)14:00~16:00に、仙台市宮城野区中央市民センターにおいて令和8年度の安全大会を開催しました。大会には弊社社員、協力会社の他、元請けの大日本ダイヤコンサルタント株式会社様、株式会社東北開発コンサルタント様からもご参加をいただき、計40名での開催となりました。

 今年の安全大会は、安全な作業のためには健康・体調の管理が基礎になるという観点から、「健康管理」についての事務局からの報告と、佐藤接骨院・スポーツトレーナーの佐藤晃様から「健康講座:徹底解剖!ホントのラジオ体操~毎朝3分が現場の安全を変える」と題した講演を受けました。

 「健康管理」報告では、毎年の健康診断結果をどう見るか、特に高血圧、肝機能について注意されることが多いので、その説明を行いました。高血圧については食品に含まれる塩分量を紹介しながら塩分摂取についての注意事項を紹介しました。また、肝機能についても肝臓の病気の紹介と、休刊日を週2日とることの重要性が話されました。

 佐藤様の「健康講座」は、現場の朝礼で毎日行っているおなじみのラジオ体操について、本当の役割が身体の「始業前点検」にあること、3分間の体操の中に、体の「準備・刺激・整理」が組み込まれていることがまず説明されました。そして13の体操を流してやるのではなく、ひとつひとつの目的と効果を理解して行うことの重要であることが強調されました。そのうえでそれぞれの運動を全員で実際におこないながら、どの筋肉に注意しながら体を動かすのか、そしてその結果自分の体調をチェックしていくことを学びました。約1時間の講演と練習が終わると、汗をかき、息が上がるようでした。

 後村社長は代表挨拶の中で「安全は特別なことではありません。作業前の確認、周囲への声掛け、整理整頓、基本動作の徹底など、日々の小さな積み重ねによって守られるものです。」と呼びかけました。

 安全大会で、今後も健康を重視しながら安全第一で作業をおこなっていくことを社員、協力会社一同で確認しました。引き続き頑張っていきたいと思います。

               後村社長の挨拶

       事務局からの「健康管理について」の報告

      佐藤接骨院・スポーツトレーナー 佐藤晃様の講演

          参加者全員でラジオ体操の実習


最上川についていろいろ(5)最上川の水運

2026年07月22日

 明治に入り鉄道が全国に敷設される前は、物流の主役は船運でした。北上川では石巻に、利根川では銚子に内陸の物資が集中し、またそこを起点として内陸へさまざまな物資が運ばれていきました。最上川では河口港の酒田が起点です。最上川流域の各地から、米、紅花、大豆、青苧(あおそ-からむし、繊維の原料)などが川を下って酒田に運ばれ、北前船で京、大阪に運ばれました。逆に酒田からは、茶、塩などが上流の各地に運ばれました。

 特に塩は重要でした。日本海側でも製塩は行われましたが、天候の悪い時期が多く、塩田による大量生産は困難でした。塩は主に大生産地である瀬戸内地方(赤穂など)から運ばざるをえなかったのです。そして川沿いにある川港で荷下ろしされ、さらに内陸に牛馬で運ばれていきました。

 最上川の水運は古くからおこなわれていたようですが、江戸時代以前は大石田までが限界でした。そこから上流は、いわゆる三難所―碁点、三瀬、隼瀬で河床に岩盤が露出し、舟が通行できないためでした。この河床を開削し水深を確保しようとしたのが最上義光です。

 この開削工事以降、川船の運行は徐々に上流にのび、船津(山形市)、左沢、宮(長井市)と川港が開かれ、最終的には高畑まで伸びました。当時の川船は平田舟と呼ばれる、帆と櫂を使ったものでしたが、上流では小鵜飼舟と呼ばれる小型の船を使ったようです。

 これらの船はもちろんモーターもエンジンもないので、下りはいいものの、上りは大変です。人力によるけん引も多かったようで、大石田―酒田を往復するには天候によって40日から60日もかかったそうです。とはいえ、人力や牛馬による運搬に比べ、大量に荷が運べるのではるかに効率が良かったのでしょう。それにしてもあの渓谷をよく帆と人力で運行したものだと感心させられます。

      昭和20年代の最上川船運の様子(清川公民館蔵)

 酒田からは北前船によって主に上方(大阪など)へ運ばれたのですが、この航路を完成させたのが河村瑞賢です。河村瑞賢は、江戸時代初期に商人でありながら幕府の土木工事、治水、築港、治山工事を手掛けた異才の人物です。

 彼が完成させた東回り航路(酒田~津軽海峡~太平洋~銚子~江戸)、西回り航路(酒田~日本海~瀬戸内海~江戸)のうち、西回り航路はさらに蝦夷地(北海道)まで伸び、それを担う船が北前船と呼ばれました。東回り航路は何といっても黒潮という難物があり、潮の流れに逆らって進まなければならず、さらに犬吠埼沖という船の難所がありました。一方西回り航路は冬の時期をのぞけば安定した運行ができ、途中の寄港地も多く、圧倒的にこちらが利用されました。東回り航路は東北太平洋側の諸藩が江戸に米を運ぶのに限定されました。

             東回り航路と西回り航路

 酒田は北前船の寄港地として大変な繁栄を迎えたのですが、酒田と言えば本間様です。さまざまな物品を扱う問屋から出発した本間家は、庄内藩酒井家と結び、抜群の財力を持つ商人であり、北前船の船主であり、さらに最盛期には日本一の大地主と呼ばれました。最盛期の土地所有面積はおよそ3,000町(≒3,000ha)、だいたい1町から10石のコメが取れたと言われますので、土地全てが田であれば3万石の大名に相当します。

 本間家はただの商人ではなく、酒井家、上杉家への融資による援助(もちろんもうけはあるのですが)、庄内砂丘の植林による飛砂の防止、繰り返す飢饉に備えた備蓄米の蓄積と放出など、社会事業家としての一面をあわせ持っていました。特に第三代本間光丘(みつおか)は、地元の人たちに感謝され酒田市の光丘神社に祭られています。

 江戸時代の商人は(すべてとは言いませんが)、三井家の家訓である「三方よし」、売り手よし、買い手よし、世間よし、という商売は当事者だけでなく世間のためにならなければならない、という倫理観を持っていました。これは明治期の渋沢栄一にもつながる感覚だと思います。現代のグローバル・キャピタリストに爪の垢でも煎じて飲ませたいものです。


最上川についていろいろ(4)最上川流域の地形と水害の特徴

2026年06月30日

 記録が残っている最上川の水害で、最大の被害を出したと言われているのが昭和42年の羽越豪雨です。現在の流域治水プロジェクトでは、この水害時の流量の1.2倍を想定最大流量として治水計画の基準としています。

 羽越豪雨という名前のとおり、羽=山形県、越=新潟県に、死者108名を含む甚大な被害が発生しました。昭和42年8月26日、日本海から東西にのびる前線に南から暖かく湿った大気が流れ込み、豪雨がもたらされました。特に飯豊、朝日山系を中心に記録的な豪雨となり、最上川、荒川、三面川、胎内川、加治川流域に過去最大の水害をもたらすことになったのです。新潟県関川村で36時間雨量が700mm、胎内第1ダムで645mm/24時間、山形県小国町で532mm/24時間などの降水量となりました。

 新潟県下越地方の被害が特に多かったのですが、山形県では米沢を中心とした置賜地方に被害が集中しました。その中でも小国町の被害が甚大でしたが、荒川だけでなく、白川、野川、寒河江川が氾濫し、合流した最上川でも白鷹町でも堤防を越流し、浸水被害が発生しています。この水害を契機に、国交省(当時は建設省)、山形県の水害対策が見直され、ダム、遊水地、堤防改修が大きく進むことになります。

 下の図①は、羽越豪雨時の等雨量線図です。図②は(1)で述べた令和6年7月水害の等雨量線図です。こちらは県北部、最上川北側の山地(出羽山地・青沢越周辺)から新庄周辺に雨量が集中しています。

   図① 羽越豪雨等雨量線図(国交省湯沢河川国道事務所より)

      図② 令和6年7月水害等雨量線図(山形地方気象台より)

 最上川流域の水害の特徴は、地域差が大きいということです。この原因の一つは雨の降り方です。東北地方、特に日本海側では西日本や東日本太平洋側に比べ、台風による広範囲の豪雨は少なく、多くは停滞した前線が刺激されることと温帯低気圧で発生します。梅雨末期の豪雨が典型で、今述べた二つの水害もこのパターンです。このため東西にのびた前線に沿って比較的狭い範囲に雨が集中することが多いのです。

 もうひとつは地形的要因です。山形県という名のとおり、山形県は周囲を山々に囲まれています。北から鳥海山・丁山地、東に奥羽山脈、南は吾妻・飯豊山系に囲まれ(西は日本海)、中央に出羽山地、月山・朝日山系、さらに白鷹山があります。米沢、長井、山形・尾花沢、新庄という大きな盆地と庄内平野が、これらの山々によって複雑に地域が区分され、狭窄部がそれぞれを結んでいます。

   最上川流域図(「日本の自然-東北」岩波書店より引用)

 最上川はひとつの流れなので上流の雨は下流に影響するのですが、その被害は狭窄部でブロック化されます。逆に言えば、狭窄部は下流の被害を軽減するバリアの役割を果たしていると見ることができます。

 最下流部、河口にあたる庄内平野は上、中流域の水害とは少し趣が違っています。平野を流れる最上川は、今では堤防によって流路を固定されていますが、近代的な土木技術がなかった明治以前は、大氾濫のたびに大きく流路を変え集落そのものを飲み込みました。あとで詳しく述べますが、河口にある酒田市さえ、最上川の流路変更によってその場所を変えています。

 最上川の治水は上、中、下流の地域ごとにおこなわれ、流域一帯の治水事業が行われることがありませんでした。これは山形県の歴史的経緯も影響しているかもしれません。

 山形県は戦国末期に最上氏が領有し、江戸時代初期には57万石の大大名になりますが、1622年に改易され、その後は中小大名と、幕府天領(直轄地)に分割され支配されました。もっとも大きく安定していたのが庄内藩酒井家の17万石、次いで米沢藩上杉家の15万石、それ以下は新庄藩、山形藩、天童藩など2万~6万石の小大名です。最もひどいのは山形藩で、石高こそ5万石ですが、幕府閣僚から失脚した大名の左遷先となり、実に15家も変わっています。これでは継続した治水事業など期待しようがありません。これらの細分化した藩の支配が近世の山形県の分散化をさらに進めたのかもしれません。

 話が戻りますが、昭和42年羽越豪雨が、こうした地域ごとの治水対策から最上川を一体としてとらえる契機となりました。上流部での白川ダム、長井ダム、寒河江ダムなどのダム建設、大久保遊水地の建設はこの結果生まれたものです。現在進められている最上川の流域治水も、河川全体を一体としてとらえ、治水に取り組もうというものです。今後の成果に期待したいと思います。


最上川についていろいろ(3)最上川流域の形成史

2026年05月22日

 最上川はいつからあるのか?「悠久の川の流れ」という言葉がありますが、実はそれほど長い歴史を持っているわけではありません。もちろんそれは地質年代を尺度にした場合で、人間の時間を尺度にすれば大変に長いのですが。

 東北地方の多くが地上に姿を現すのは、中新世末期から鮮新世(800万年~600万年前)以降で、それまでは海中にあったのでそもそも最上川は存在しません。それ以前は、北上山地、阿武隈山地、飯豊・朝日山地が島としてあったにすぎません。

 太平洋プレートの圧縮力により奥羽山脈、出羽山地が大きく隆起し、現在のような姿になるのは新第三紀更新世以降、つまり300万年前以降です。山形県内で活断層とされている断層帯は、新庄盆地の東西断層帯、山形盆地断層帯、長井盆地西縁断層帯、庄内盆地東縁断層帯などです。これらの断層帯によって山地と盆地・平野が区切られ、山地が隆起、盆地・平野が沈降しています。

 これらの断層帯は、東北地方が海の上に姿を現した時代から継続的に活動してきたはずです。この断層活動により、奥羽山脈、出羽山地が隆起し、米沢盆地~新庄盆地、庄内平野は沈降し、そこに隆起した山地が浸食を受け、大量の土砂が流入し、平地が形成されました。

 下の図は山形県域の過去の海と陸地の想定分布図です。400万年前でもまだ出羽山地ははっきりと見えません。

          山形県域の過去の陸・海の想定分布図

         (東北地質調査業協会編「山形県の地質」より)

 

 これを見ると、山地の隆起に伴って海域が後退し、それを追いかけるように支流が合流し、最上川が出来上がってきたことが想像できます。

 下の図は最上川流域の標高と距離を表した図です。狭窄部では勾配が急になり、盆地では緩くなっていることがわかります。氾濫を起こすということは、そこで水が滞留し、土砂を沈降させ平地を作るということです。狭窄部こそが上流の盆地=平地を作る要因です。しかしそこに人が住み、生活し、田畑を作るようになると災害と呼ばれます。

 上流の盆地からしだいに陸化し、最後に陸化したのが庄内平野です。庄内平野も新潟平野などと同様、かつては広く遠浅な海でした。氷期-間氷期の繰り返しの中で、海になったり陸になったりをくりかえしながら、最上川が運ぶ大量の土砂で埋め立てられていきます。

 最終氷期終了後(およそ1万年前)、現在の海水準-10mまで上昇してきた7,000年前から5,000年前に、砂州が現在の海岸線付近に形成され、古庄内湾が出来上がったと考えられています。最上川は湾を埋め立て、およそ4,000年前にほぼ現在の海水準に達しました。砂州は砂丘となり、庄内平野は最上川の後背湿地と赤川、日向川、月光川の扇状地になりました。この当時、人が生活できたのは扇状地に限られていたと思われます。1,200年前からは、各河川は沖積平野面を下刻する傾向がある、つまり土砂の堆積が十分に進んだ、と考えられています。

 庄内平野の形成を考えるうえで重要なのは大量の土砂の堆積です。山は隆起していくので、浸食量もそれに応じて大きくなるのですが、その中でも重要なのは山の斜面の崩壊による土砂の供給です。最上川流域は日本でも有数の地すべり地帯です。

 最上川流域の岩盤は、かつて日本海にあったころに堆積した泥が固まった泥岩(でいがん)と、海底火山の噴火でできた凝灰岩(ぎょうかいがん)、溶岩から主にできています。泥岩は地すべりの素因になりやすい岩盤です。そしてもう一つ、火山の存在です。火山からの噴出物は未固結な地層となり、頻繁に崩壊を起こします。

 月山の北側から流れてくる立谷沢川の河原には、巨大な礫がごろごろしており、その荒々しさに驚かされます。自分の経験で恐縮ですが、私は立谷沢川上流の濁沢の治山事業のため、崩壊地の調査に携わったことがあります。濁沢という名前のとおり、雨が降ると白い濁流が流れ下り、前年に完成したばかりの巨大な砂防堰堤が満杯になり、濁流で破壊された堰堤もありました。土石流のすごさに驚かされました。

 下の図は濁沢付近の地形図です。左下のなめらかな斜面は月山山頂付近の弥陀ヶ原です。ここはまだ浸食が及んでいません。濁沢左岸は巨大な崩壊地となっていて、ここから出る岩塊が立谷沢川まで土石流として流れ下っています。

        立谷沢川上流の地形図(地理院地図を編集)

 もう一つ、大蔵村の銅山川周辺の地形図も上げます。下湯ノ台、今小屋野という地名のあるあたりは平坦面が広がっていますが、銅山川のまわりは激しい崩壊が見られます。南山という地名のところは何段にもわたって、崩落涯があり川に向かって崩れ落ちています。平坦面は肘折火山がおよそ2万年前に噴出した火砕流台地です。火砕流は基盤の泥岩の上に堆積しており、泥岩と火砕流堆物の境ですべりが発生しています。大蔵村はほとんど一村全てが地すべり地と言っても過言ではありません。

     山形県大蔵村・銅山川周辺の地形図(地理院地図を編集)

 大規模な地すべり地は国営事業として砂防工事が行われ、概成したところもありますが、月山南麓の志津地区や七五三掛(しめかけ)地区では、現在も国の直轄砂防工事が続いています。

 豪雨は氾濫被害だけではなく土砂災害も引き起こします。これも最上川流域が形成されてきた過程で作られた地質的要因によって起きています。庄内平野を肥沃な大地に変えた土砂は、一方で災害を引き起こす原因でもあるのです。