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幸福の条件としての土木

2024年10月15日

 当ブログで、北上川から始まり、木曽川、信濃川と日本を代表する河川について、地形とその形成史、水害とその対策工事の歴史を書いてきました。それは河川工事が最もわかりやすく土木事業の特徴を表していると考えているからです。

 「土木」という言葉の語源は「築土構木」という言葉を略したものです。この言葉は中国の漢の時代に書かれた「淮南子」(えなんじ)から来ています。

 「昔、民は湿地に住み、穴倉に暮らしていたから、冬は霜雪、雨露に耐えられず、夏は暑さや蚊、アブに耐えられなかった。そこで聖人が出て土を盛り木材を組んで家屋を作り、棟を低くして雨風を防ぎ、寒暑を避けえた。かくして人々は安心して暮らせるようになった」と書かれています。この「土を盛り、材木を組む」が「築土構木」です。

 また、中国には「黄河を治めるものは天下を治める」という言葉がありました。これは中国の伝説上の皇帝・禹(う)が黄河の氾濫をおさめる工事を行い、皇帝になり治水神として祭られたという故事によります。

 黄河はアジアで3番目、世界でも6番目の長さを持つ大河川で、日本とは比較にならない規模の水害の歴史を持っています。全長5,464km、流域面積75万4,443km2、日本最長の信濃川の約15倍、流域面積日本一の利根川の約45倍、大陸の川はやっぱり大きいですね。

 治水事業の歴史は、古代文明の誕生とともに始まりました。いわゆる4大文明(いまでは4大文明と言わず、10大文明というようですが)は、黄河、ナイル川、インダス川、チグリス・ユーフラテス川という大河のほとりで興りました。

 黄河のほとりでは、紀元前5000年頃から農耕が始まり、ヤンシャオ文化、ロンシャン文化を経て、殷・周の古代王朝へ発展したとされています。また、古代メソポタミアでは紀元前4000年頃にはすでに治水と灌漑が始まっていたとされています。

 この4つの川の中でも黄河の氾濫は格別です。その原因は黄土高原にあります。黄河の上・中流域にある黄土高原は、およそ250万年前から中国西方にある砂漠地帯で巻き上げられた砂塵が堆積してできたと言われています。その厚さは50m~80m、厚いところでは150mに及ぶシルト質の土壌で、非常に硬いものの、流水に弱く、いったん崩れると粉状になり飛散しやすくなります。春先に日本に飛来する黄砂はここから来ています。

 黄土高原の流水とともに大量の黄土が流れ込み、水は黄色に濁っています。これが黄河の名の由来です。黄河の土砂含有量は世界の他の川に比べて圧倒的に高く、流入する海も黄色く濁っています。黄海は、英語でもYellow Seaでそのままの呼び方です。

 この黄河が運ぶ土砂はミネラル分が多く、肥沃な土地を作り農耕を支えましたが、一方で大変な暴れ川となりました。河道内に土砂が堆積し、天井川となり、出水のたびに堤防を破壊し、河道を変えていくことを繰り返したのです。黄河下流部の平原では、黄河自体が分水嶺になっているため、黄河に流入する河川はありません。それほど天井川化が進んでいるのです。

 下の図は黄河の流路の変遷を表したものです。「故道」とは黄河の昔の流路のことです。禹河故道が最も古く、禹が定めた河道(流路)とされています。漢代の治水家、王景の改修によって定められたのが、東漢故道と呼ばれ(11-1048)、長期にわたって安定していました(図では現代の中国漢字で書かれているのでわかりにくいですが)。ここまではほぼ現在の流路に近く、渤海湾に流れ込んでいました。その後1128年~1855年までは黄河は大きく南に流れ、淮川を通り淮南から黄海に流入するようになりました。ほぼ揚子江(長江)の河口近くまで南下しています。

 1855年、黄河は大洪水をおこし北流し、再び渤海湾に流れ込みます。これがほぼ現在の黄河の流路です。黄河は3000年の間に1500回洪水をおこし、26回流路を変えていると言われています。流路を大きく変えた時の氾濫被害の大きさは大変なものだったと思います。

 記録に残る黄河の大水害に、1877年と1931年水害があります。なかでも1931年の水害は、黄河、淮河、揚子江が同時に氾濫し、水死とその後のコレラ、チフスなどの伝染病による死者とあわせ200万人から400万人が死亡したとされ、(記録に残る)史上最悪の自然災害と言われています。

 黄河はほぼ常に氾濫を起こしていたと言っていいのですが、それは黄河を作っている地形・地質に規定された宿命と言っていいものです。しかし氾濫による被害の大きさは、その時代の政権の安定性にも関わっています。1855年と1877年水害は、太平天国の乱から清朝末期の混乱期にあたります。また、1931年水害時は日中戦争と第一次国共内戦が行われていました。被災者の救護や疫病の防止などに取り組めるような状態ではなかったのでしょう。

 「黄河を治めるものは天下を治める」これは土木事業の重要性を示す言葉です。天下を治めるとは、人々の生命と生活を守ることに外なりません。

 仕事として土木をやっていると、ともすると毎日のルーティーン作業になり、何のためにやっているのかを忘れてしまいがちです。大きな災害があり、復旧工事があるとまた思い出したりするのですが、私たち土木に関わる技術者は、「幸福の条件」を作っているのだ、という気概を胸に秘めていたいものです。


幸福について

2024年09月11日

 5月に大船渡市が主催した「アンモナイトの古生物学×大船渡市の古生物学~大船渡市 化石産地としての魅力を発信」という講演会に行ってきました。会場には手で触れられる化石も置いてあり、なんだか牛の角みたいな化石だな、と思っていたら、「それはティラノサウルスの歯の化石です」と説明されて、びっくりしました。

 それはともかく、アンモナイトについては深田地質研究所の研究員相場大祐先生が、大船渡の化石、特に三葉虫化石について大船渡市立博物館の古澤明輝主任学芸員が説明をされました。お二人は同じ大学院の1年違いの先輩後輩で、一緒に研究を続けてきたそうです。化石の話も面白かったのですが、子供のころから化石が大好きだったという、思い出話しも興味深かったです。古澤先生は幼稚園の卒園文集に三葉虫の化石の絵を描いたそうです。

 「子供のころからの夢を追いかけて、今でも研究を続けていられることは、本当に幸せだと感じています」という言葉が印象的でした。そうだろうなあ、と感じました。

 フランスの哲学者アランの「幸福論」という高名な本があります。その中に次のような文章があります。

「つまるところ幸福は自由にやることの中にある。幸福は自ら従う規則の中にある。サッカーであれ、学問であれ、自ら受け入れた規則の中に幸福はある。これらの義務も外から見ていたら楽しくないどころかうっとうしいだろう。してみれば幸福は、見返りを求めていなかった人のところに突然舞い込むご褒美なのである」

 なかなか難しい言い方ですが、自分自身が選択した仕事を、自分が決めたルールに従って追及していく。それは見返りを求めて行うものではない。そうした仕事を倦むことなく続けていった結果、思いもよらず幸福を感じることができるのだ、というような意味でしょうか。お二人がやってきた研究の人生は、まさにこのようにして訪れた幸福ではないかと感じました。

 現在の社会心理学の研究によると、「身のまわりに信頼できる暖かな関係があること、その身近な人に自分が必要とされていると感じること」に、ほとんどの人が幸福を感じるとされています。ごく当然の結論だろうと思います。それに加えて、自分の仕事に打ち込み、評価されればさらに幸福感は増すでしょう。

 とはいえ、こうした感情は平穏な日常がある、という前提での話です。イスラエル-ガザ紛争やウクライナ戦争に巻き込まれている当事者で、どれほどの人が幸福を感じているでしょう。身近な人が死に、自分もいつ爆弾で死ぬかわからないという状況に置かれた人は、とても幸福を感じる余裕はないでしょう。東日本大震災や今年の能登地震の被災者も、少なくとも被災した当時は幸福どころの話ではないと思います。

 世の中は広いので、世界の70数億人の中には鉄砲玉の飛び交う危険の中にしか幸福を感じられない、という人もいるかもしれませんが、そんな人はごく少数でしょう。こういう人の話は省きます。

 私たちは、明日も明後日も今日と同じような生活が続くことを前提に生きています。「治に居て乱を忘れず」いつ非常時がやってくるかを考えながら、それに備えて生きなければならない、と言う人もいますが、それは国家の指導者はそうであっても、われわれのようなそこらここらに転がっている平凡な人間は、平穏な日々が続くものと思っているのが普通です。何を幸福と感じるかは人によって違いますが、幸福の条件ははっきりしています。それは平穏な日々が続き、生命と生活の安全が守られていることです。

 国家とは何か。昔から多くの人が論じていますが、結局は国民の生命と生活を守り、維持するための装置であろうと思います。生命と生活を脅かすものは何かというと、端的には戦争、犯罪、疫病、経済の混乱、自然災害などでしょう。また、これらは複合して起きることが一般的です。

 戦争を防ぐために外交や国防があり、犯罪を防ぐために警察組織、自然災害には国土交通省(日本では)、経済の混乱には財務、金融などの行政組織があります。もちろん国家・行政の役割はこれにとどまるものではなく、教育、医療、福祉、産業の育成など広範なものを含みます。

 日本国憲法第13条に「すべての国民は・・生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」としています。また、第25条で「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めています。憲法が定めているから、というわけではないのですが、これが国の果たすべき役割です。

 つまるところ、国家の役割とは人々が幸福に生きるための基本的条件を整えることにあります。また、歴史とは人々が安全を目指し、国家がそうした役割を整えるための過程と見ることができます。歴史についてもさまざまな見方がありますが、世界が紆余曲折しながらもより安全になってきたことは間違いありません。

 スティーブン・ピンガ―の「暴力の人類史」などを読むと、いかに過去の人類が残虐で、人間の価値が低かったのかがわかります。古代から中世世界では人の価値はタダ同然でした。「只より安い物はない」と言いますが、もしかしたらタダの物品より安いものだったかもしれません。

 20世紀においても、第一次、第二次世界大戦という大量の死者を出した戦争があり、ヒトラーのユダヤ人虐殺、スターリンの粛清、毛沢東の大躍進政策による大量の餓死者などもありました。それでも対人口比でいえば減少しています。また、これらを教訓とした国際体制が構築され、現在では圧倒的に戦災や災害での死亡者が減少しています。

 いかに国民の生命と安全を守るのか、また国民生活の発展を支えるのか、すなわち幸福のための基礎的条件を整えるのかが、国家の役割です。そして土木事業もそうした役割を果たすためのひとつの分野であると言えます。


令和6年度安全大会を開催しました

2024年08月21日

 8月9日(金)に仙台市旭ヶ丘市民センターにおいて、令和6年度の安全大会を行いました。社員・協力会社31名、元請け会社の大日本ダイヤコンサルタント株式会社様、株式会社東北開発コンサルタント様から7名のご参加をいただき、計38名で行いました。

 今回の安全大会は、昨年に引き続きリスクアセスメント手法による危険予知活動のグループワークと、AED(自動体外式除細動器)を用いた緊急救助活動訓練を行いました。KYグループワークでは、「ロッドの落下によって手を挟んで骨折した」という事故事例をテーマとして「どんな危険が潜んでいるのか」「私たちは具体的にどうするのか」というKY活動を、6グループに分かれて討議、発表を行いました。

 後半はセコム株式会社様から講師を派遣していただき、AEDを使った訓練を行いました。AEDはすでに多くに事業所だけでなく、建設工事現場にも導入されてきています。万一仲間が心肺停止状態になった場合に、慌てずに救助することができるように訓練しておきたい、という主旨で行いました。AEDの仕組み、被災者発見後の救助要請から被災者の状態確認、胸骨圧迫(心臓マッサージ)、AEDによる電気ショックの操作方法という一連の流れを学び、参加者全員が実地訓練に参加することができました。

 2時間という限られた時間で盛り沢山の内容だったため、事務局からの安全管理報告、今後の方針報告は駆け足になってしまいました。昨年の安全大会から1年間で29カ所の安全パトロールを行い、WEBを利用した安全会議を3回、その他適宜に他社の事故報告と対策等をメールで連絡するなどの安全活動を行ってきました。今年も引き続き安全パトロール、安全会議を中心に、無事故、無災害で現場作業を進められるように社員、協力会社だけでなく、元請け各社とともに頑張っていきたいと思っています。

            熊谷代表取締役の挨拶

          KY(危険予知)活動の討議

             KY活動の発表

      セコム株式会社様からのAEDについての講義

           心肺蘇生の実習訓練


信濃川についていろいろ(6)大河津分水

2024年08月07日

 信濃川が最も日本海に近づく大河津から日本海に信濃川を分流するという案は、寛政元年(1789年)、寺泊の豪商、本間屋数右衛門が幕府に願い出たことから始まると伝わっています。おそらく本間屋数右衛門だけでなく、かなりの共通認識であったと想像できます。しかし、水利権をめぐる対立や、莫大な費用のため実現に至りませんでした。

 戊辰戦争が終わったばかりの明治2年、白根村の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を請願し、明治新政府はこれを認め、明治3年に第1期大河津分水工事が開始されました。しかしこの時も反対運動と外国人技術者の「信濃川本流への影響が大きすぎる」という勧告で工事は中止され、それに代わる堤防強化の方針が打ち出されます。

 大河津から新潟河口までは約55km、分水路の長さは約10kmです。したがって分水路の勾配が急であり、水は本流よりも分水路の方が流れやすくなります。この流れのコントロールが当時の技術では難しい、ということが外国人技術者の勧告の理由です。これはのちの工事で実際に起きてしまいます。それはともかく、明治19年から明治35年まで河川改修と堤防工事が行われましたが、その時に起きたのが前回触れた「横田切れ」水害です。

              大河津分水位置図

 この洪水被害の大きさから、政府は明治42年から第2期大河津分水工事を開始します。これは大変な難工事となりました。大河津と寺泊海岸との間には、角田山、弥彦山から続く標高100~150mの山地があります。これを掘削するために最新型の動力掘削機と、延べ1,000万人の労働者を投入しました。この工事は「東洋一の大工事」と呼ばれましたが、一方で「お化け帳場」とも呼ばれました。

 それは掘削する山が、新第三紀の泥岩でできていて、地すべりを起こしやすいためでした。工事中に3回も地滑りが発生し、特に3回目は、掘削した分水路が埋まってしまうほどの大規模なものでした。

 昭和2年(1927年)5月に分水路は完成しますが、その直後の6月24日、川底がえぐられ、自在堰の基礎に空洞ができ陥没してしまいました。そのため信濃川本流の水のほとんどが分水路に流れ込み、下流域に水が流れないという事態が発生します。下流域の住民の生活、農業用水、舟運に甚大な影響が起きました。先に述べた外国人技術者の心配が現実になってしまいました。

 この事態に内務省が送り込んだのが、新潟土木出張所長の青山士(あおやまあきら)と主任技官の宮本武之輔(みやもとたけのすけ)です。青山士は、大学卒業後、単身アメリカに渡り、パナマ運河開削工事に従事し、その設計を担当した人です。日本に帰国後は、内務省技師として荒川放水路、鬼怒川改修工事を指揮した、河川工事のエキスパートでした。宮本武之輔も青山士と同じ東京大学土木で廣井勇の門下生であり、内務省技官として青山士の部下として利根川、荒川の改修工事を担当していました。内務省は当時のエース技官二人を陣頭指揮として送り込んだのです。

          青山 士

 崩落した自在堰を取り除き、新たに可動席を建設する工事が始まりました。1930年8月30日に豪雨のため洪水の危機が迫り、宮本武之輔は下流の洪水を防ぐため、仮締め切り堤を独断で破壊するという事態もありましたが、工事を遅らせることなく、1931年6月30日に可動堰工事が完成。ついに大河津分水は構想から140年の時を経て完成したのです。

 さらに大河津分水路の後には、関谷分水路、加治川放水路、新発田川放水路など数多くの排水路が作られました。これらの分流施設によって、新潟平野は現在の穀倉地帯に姿を変えたのですが、もう一つ大きな役割を果たしているものがあります。それは越後平野各地にある排水機群です。新川河口排水機場、新井郷川排水機場、白根排水機場、親松排水機場など多くの排水機場が、低地に集まってくる水を排水しています。上の4つの排水機場の排水量は毎秒450m3に及び、ほぼ信濃川の平均流量に匹敵しています。

             現在の大河津分水

               親松排水機場

 大河津分水は新潟平野を洪水の危機から救い、穀倉としての繁栄をもたらしましたが、一方で信濃川からの土砂の供給が減少し、新潟河口部での海岸の後退という事態も引き起こしています。明治時代から現在まで約350mの海岸の後退が見られます。これに対して、離岸堤、人工リーフ、潜堤の設置工事や人工的な砂の供給が行われています。

 千曲川水害の要因となってきた立ヶ花、戸狩の狭窄部を掘削し、川幅を広げ、遊水地を作る工事がすでに始まっていますが、これも下流への影響を考慮しながら進めなければなりません。これひとつですべてがうまくいく、という対策はありません。信濃川とその水害と戦ってきた歴史を見ると、ひとつの水系をバランスよく整備し、住民の命と生活を守ることは本当に難しく、しかし大事な事業だと感じさせられます。

※この項の主な参考文献

信濃川自由大学 平成19年度公開講座「信濃川のルーツを探る~信濃川がつくった越後平野」

亀田郷農業水利建設所「芦沼略記」

丸山岩三「寛保2年の千曲川水害に関する研究」

国土交通省北陸地方整備局千曲川河川事務所ホームページ

同信濃川河川事務所ホームページ


信濃川についていろいろ(5)信濃川の水害と新田開発

2024年07月04日

 新潟県の信濃川水害の記録を見ていると、気の毒になってしまうほどです。記録のはっきりしている1700年頃代から見ると、毎年のように「××で破堤、田畑の被害何万石」という記録が残っています。長岡藩、新発田藩、幕府代官所は人命の救助と食料の確保に右往左往していた様子がうかがえます。数多くの水害のなかでも、近世から近代最大で、信濃川=越後平野の水害の典型例が、明治29年7月22日に発生した大洪水「横田切れ」です。

 「横田切れ」は西蒲原郡横田村(現在の燕市横田地区)において、信濃川の堤防が約300mにわたって決壊し、信濃川下流部が広範囲にわたって浸水した氾濫被害です。下は浸水範囲を示した地図です。被害面積180km2、床下床上浸水4万3600戸、流失家屋2万5000戸、死者75名という被害でした。この浸水は長期間に及び、低い土地では12月まで水没していたそうです。影響は浸水にとどまらず、衛生状態の悪化により伝染病が蔓延しました。

        横田切れの破堤位置と浸水範囲

 下の航空写真は新潟市亀田地区周辺の土地の高低を表したものです。青い地域は日本海の平均海面より低く、鳥屋野潟は海抜マイナス2.5mとなっています。新潟平野は、現在でいえば茨城県の霞ケ浦や北海道のサロマ湖のような潟湖(せきこ)を信濃川や阿賀野川が運んだ土砂が埋め立てて造った平野です。そして構造運動によって現在でも沈降が続く、十日町盆地から連続する向斜軸に相当しています。低平であり、排水条件が極めて悪い沼沢地でした。したがって、信濃川の度重なる氾濫は新潟平野の形成史から見て宿命といえるものです。

 新田の開発は通常いかに水を引いてくるのかで苦労しますが、新潟平野ではいかに水を排除するのかが課題となりました。まず問題になるのが、川が海に出るのを邪魔している砂丘の存在です。正保4年(1647年)に描かれた絵地図を見ると、信濃川、阿賀野川、加治川はすべて合流して新潟の河口から日本海に流出していました。そのために排水されない水は多くの沼地に集中します。現在もある鳥屋野潟、福島潟、紫雲寺潟などはその名残です。

 新潟平野では、排水路を掘削し、その土砂で沼を埋め立て、新田を開拓する作業を、各藩と農民が営々と続けていました。しかし泥に浸かって稲を育てても、連年の水害によって3年に1度しか収穫できない、さらに5年に一度は大洪水と言われる状態が続きます。

 これを変化させたのが、1730年の阿賀野川の分流です。これは半ば偶然に起きた事態でした。もともとは紫雲寺潟の干拓のために新発田藩が阿賀野川のショートカットを計画し、幕府に願い出たものですが、新潟港の水深が浅くなることを恐れた新潟の町民が反対します。そのため、増水時だけ水を日本海に流す予定で砂丘を掘削したのですが、翌年の雪解け洪水によって破壊され、幅270mの本流になってしまったのです。これが現在に続く阿賀野川河口です。この阿賀野川分流により、阿賀野川旧流路付近は土地が干され、大幅な新田開発が可能になりました。

 下の写真は昭和の時代まで続いていた新潟平野での農作業の様子です。泥田で腰までつかりながら田植えをし、刈り取った稲を船で運んでいることがわかります。司馬遼太郎は「街道をゆく―潟の道」で、こうした農作業の記録映画を見て次のように書いています。

「食を得るというただ一つの目的のためにこれほど激しく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くり返すという生産は、世界でも類がないのではないか」

 阿賀野川の分流以降も、新潟平野全体の湛水状況はさほど変わらず、厳しい環境が続きました。また、洪水被害の頻発も変わりませんでした。こうした状況を脱し、安定した農業と生活を築くためには、信濃川を分流して日本海に流す必要がある、という認識は早くからありました。しかし、新発田藩、長岡藩、幕府天領が混在し治水事業がそれぞれの思惑で対立するという状況があり、また村落同士の水利権をめぐる対立、新潟町民の信濃川の水深が浅くなると新潟港の機能が失われることへの反対が根強く、大きな新川の開削には至りませんでした。

 これを変えたのが最初に述べた「横田切れ」の大水害です。この水害により、ついに政府は「大河津分水工事」の実施を決定したのです。