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木曽三川

2023年12月01日

      濃尾平野と木曽三川の合流地点(海津市ホームページより)

 前回に続き、またテレビ番組の話から始まるのですが、NHKの「ブラタモリ」が面白くて毎週見ています。「ブラタモリ」は、2016年に国土地理院から、また2017年には日本地質学会から表彰を受けています。地形や地質、その地域の歴史について広く興味を持ってもらうため大きな貢献をしていると評価されています。私たちの業界の人もたくさん見ているようです。

 今年7月1日のテーマは「木曽三川~暴れ川VS人間の激闘の歴史とは」でした。ご覧になった方と木曽三川に詳しい方にはくどい話になるのですが、土木の歴史、地形と災害の関係などについて、いろいろ考えさせられる話題だったので、私なりの感想を述べます。

 現在の木曽川下流域は、木曽川、長良川、揖斐川(いびがわ)の三つの川が分かれて流れていますが、分流工事の前は、合流と分岐を繰り返し、網の目のように流れていました。大雨のたびに氾濫と水害をくりかえし、三川を治める治水事業は何度もおこなわれ、最終的には1887年(明治20年)から1912年(明治42年)のオランダ人技師ヨハネス・デケーレによる三川分流工事でほぼ現在の状態になっています。

 木曽川は流路延長229km、三川を合計した流域面積9,100km2と、長さでは阿武隈川に次いで全国7位、流域面積では北上川に次いで全国5位の大河川です。三つの川の流域は、概ね岐阜県の美濃地方(岐阜県の南部2/3くらい)から長野県の木曽地方を占めています。岐阜県の飛騨地方(北側1/3)は、白川郷をとおる庄川、高山をとおる宮川(富山県に入ると神通川になる)の流域となり、どちらも富山湾に注いでいます。美濃・飛騨の旧国境がほぼ日本海側と太平洋側の分水嶺になっています。

 細かくなりますが、三川まとめてではなく、それぞれの川について少し説明します。

 まず一番西側の揖斐川です。桑名市付近の伊勢湾から大垣市を経由し、養老山地、伊吹山地の東側を流れ、岐阜県と福井県の境にあたる越美山地に至ります。最上流部には日本最大級の徳山ダムがあります。源流部の反対側は、九頭竜川になります。延長121km、流域面積1,840km2で三川のなかでは最小です。

 二番目は長良川、鵜飼いでおなじみですよね。織田信長が安土城を築く前の居城だった岐阜城は、長良川のほとりの金華山にありました。長良川本流は美濃市、郡上市を通り福井、石川、岐阜県境に当たる両白山地の大日岳にいたります。もう少し行くと白山です。延長166km、流域面積は1,985km2です。

 一番大きいのが木曽川です。犬山市で濃尾平野から山の中に入っていきます。美濃加茂市で大支流の飛騨川と別れ、飛騨川はJR高山本線に沿って北上し、御岳山にいたります。一方木曽川本流は中津川市を経て長野県に入ります。島崎藤村の「夜明け前」の「木曽はすべて山のなかである」という木曽谷をとおり鉢盛山に至ります。延長229km、木曽川だけの流域面積5,275km2です。

        木曽三川周辺地形図(国土地理院地図を編集)

 どの川も中部山岳地帯から白山、両白山地と険しい地形と豪雪で知られる地域を源流部としています。そして岐阜県南部の大垣市から海津市で合流し、伊勢湾に流れ込むのですが、濃尾平野の西側、三重県との県境にあたる養老山地沿いに流れています。木曽川、長良川ともに揖斐川に引っ張られるように見えます。

 「ブラタモリ」では、木曽三川が西側、養老山地に寄っていることについて、養老断層の隆起によって濃尾平野側が沈降しているから、と説明していました。下の図は濃尾平野南部の東西方向の断面図です。これを見ると基盤岩が西に行くほど低くなっている、西に傾働していることがわかります。このことによって北の広い範囲の山地から出発した三つの川が濃尾平野を流れ、西側の一番低い場所に集まることになったのです。

        濃尾平野断面図(岐阜県博物館から引用)

 このような断層運動によって沈降し、広い平野を作る場所を堆積盆と呼びます。石狩平野、新潟平野、関東平野、大阪平野などの日本を代表する平野は、いずれも堆積盆の上に出来上がっています。堆積盆は小さな河川の河口部にできるような、川が山から土砂を運び、傾斜の緩くなったところに堆積してできあがった、という平地とは違います。100万年から10万年という単位で、その土地が沈降し続け、土砂が堆積し、非常に厚い堆積層を持った広い平野が出来上がります。

 なぜ沈降し続けるのか、明瞭な形成過程はまだ分かっていませんが、単にそこに養老―桑名―四日市断層系があるから、ということではなく、プレートどうしの関係を含んだ、広い意味でのテクトニックな構造運動の現れ、と考えられています。ともあれ、濃尾平野が西側ほど低くなっているということは、揖斐川側に水害の被害が大きく表れやすい、ということになります。


土木と建築(つづき)

2023年11月10日

 土木と建築の一番大きな違いは、建築は基本的に一個一個が完結している、ということです。「時空間のコンダクター」が設計した古民家をリフォームした一軒家も、丹下健三が設計した東京都庁も一個の建物として完結しています。リビングとキッチンと寝室、風呂、トイレが別々に設計され、存在しているということは(たぶん)ありません。一つの家族、あるいは一つのチーム(会社であれ公共団体であれ)が一つの建物で生活や生産活動ができるように設計されています。

 一方で橋が単独で完結しているということはありえません。橋はトンネルや盛土、切土、擁壁、ボックスカルバートなど様々な構造物の連続する道路や線路の一部です。また、道路そのものも多くの都市、集落、港、工場などを有機的につなぐ構成要素のひとつと言えます。

 ダムも同様です。ダムはもっとも大きな土木構造物ですが、これも単独で存在するわけではありません。ひとつの河川流域の中で、治水、利水、発電といった目的に応じて、その他の多くの構造物、施設と複雑に関連しながら存在しています。

 治水という面では、堤防、遊水地、水門、樋門などと関連しながら降水量によって氾濫を防ぐために貯水量を管理しています。利水の面でも他の貯水池、取水堰堤、取水路、導水路と結びつき、飲料水、農業用水、工業用水の必要量を満たすため調整されています。特に利水の場合は、他の流域の飲料水、工業用水に導水されることも珍しくありません。

 土木構造物は、単独ではなく、他の多くの構造物、施設と関連して利用、運用されるものです。したがって建設事業も多くは国や公共団体によって、長期にわたる計画の下で発注され、設計、施工も単独ではなく、多くの事業者がかかわることになります。そのため、誰が設計したのかという個人名が残ることはあまりありません。

 先にあげた、廣井勇、田辺朔郎、青山士といった土木史に名前が残る人たちも、彼らが直接設計したわけではなく、発注者として工事全体を指揮した人たちでした。ただ、当時は現在と違って発注側の責任者が数年ごとに移動することは少なく、特に重要な事業は完成するまで担当したのです。信濃川大河津分水では、青山士は当時の内務省新潟土木出張所長(今でいえば北陸整備局長に相当)として工事を指揮し、名を残したのでした。

    現在の信濃川大河津分水(国交省北陸地方整備局信濃川河川事務所ホームページから)

 建築では建築士の考え方、美的センスなどにより、さまざまな意匠(デザイン)が可能です。土地の面積がこのくらいで、何百人の人員が、こういう仕事をできるような建物をこのくらいの予算で作ってほしい、という施主からの要求を満たし、構造計算上問題がなければ、ある程度自由な設計が可能です。また、だからこそ設計コンペによって決定することができるわけです。

 ところが橋梁の設計では、設計者がいくら吊り橋が好きだからと言って長さ20mの径間で吊り橋を作ることは考えられません。橋を架ける場所の地形、地質、径間、交通量、経済性などによって橋の種類はほぼ決定されます。まして、道路や河川堤防の設計にいたっては、道路示方書や河川堤防設計指針などによって決まっており、設計者個人の意匠の入る余地はほとんどありません。こうした要因により、やっぱり建築は土木より目立つし、かっこいいなあ、となるわけです。ちなみに東京芸術大学に建築科はありますが、土木科はありません(当たり前ですが)。

 1977年(平成9年)の河川法改正により、河川環境の整備と保全が位置付けられ、それまでの治水一本やりから、河川の生態系の保全、植生の保護等が河川管理の目的に加わりました。河川の景観も重視され、画一的な設計からもっと柔軟な設計方法が取り入れられつつあります。そもそも河川工事は自然の拡張と見ることができるので、自然本来が持っているシステムに近づいていくともいえるでしょう。

 今後は土木設計も、景観や生態系に配慮した設計、その地域の特性、環境を生かした設計、デザインが求められるようになっていくはずです。とはいえ、建築のように設計者の名前が残っていくかというとそれは違うような気がします。

 地質調査は、土木、建築どちらにも関わっているので、どちらの肩を持つわけではないのですが、どちらかというと日の当たりにくい土木技術者や職人さん(技能者)たちの重要性も知ってほしいなあ、と思ってこんな記事を書きました。

※土木学会誌 vol.89No.5「話の広場~なぜ土木技術者ブルネルは偉大な英国人第2位になったのか?」を参考にしました。


土木と建築

2023年10月17日

 「劇的ビフォー・アフター」という番組があります。最近は新しい収録が少なく、BSで再放送をしていますが、おもしろいのでよく見ています。古くなり、さまざまな問題を抱えた家や、家族構成が変わり古いままでは生活しづらくなった家をリフォームして、新たな生活を始めていく、というストーリーです。「これはもう新しく立て直したほうがいいんじゃないの」という家も多いのですが、それを予算の範囲で見事に直していくのが「リフォームの匠」です。

 この匠(たくみ)の名前がおもしろいですよね。「森の木の代弁者」とか「時空間のコンダクター」とか、番組のディレクターが考えるのでしょうが、なかなかすごい名前です。それはともかく、匠もリフォームだけやっているわけではなく、一級建築士として注文住宅の設計を主にしているのだと思います。

 それぞれの家族の構成・希望に合わせ、さらに宅地の条件を勘案しながら、住みやすく美しい家を設計していくという、住宅設計は面白い仕事だろうなあ、とあこがれを持って見ています。番組の中でも、難しい条件の中で工夫し、技術を駆使して全く新しい生活空間を作り、最後は依頼者から涙を流して感謝される―いい仕事だと思います。

 ところで全く話が変わりますが、少し古い話題で、2003年に、イギリスのBBCがイギリス人を対象にして「あなたが最も尊敬するイギリス人は?」というアンケートを行いました。その結果は・・。

1位:チャーチル

2位;ブルネル

3位:ダイアナ元皇太子妃

4位:ダーウィン

5位:シェイクスピア

6位:ニュートン

・・・・

 すごい名前ばかりです。1位のウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦で、ナチスドイツと対峙して、バトルオブブリテンを指揮し、イギリスを勝利に導いた大政治家です。ダーウィン、シェイクスピア、ニュートンも世界で知らない人はいないだろうという科学者・文学者ですが、さて、2位のブルネルとなると「誰?」となるのではないでしょうか。

 イサンムバート・キングダム・ブルネル(1806―1859年)は、ビクトリア女王時代に活躍した土木・造船技術者です。トンネルのシールド工法を開発したり、クリフトン橋、ロイヤルアルバート橋の設計(美しい橋です)、鉄道の設計、大西洋横断用の蒸気船の設計など、多方面の分野で活躍した多才な技術者でした。

        イギリス・ブリストルにかかるクリフトン橋

 ブルネルが活躍したのは産業革命を経て、イギリスが世界へ飛躍した時代です。大英帝国の栄光を支えた技術者として高く評価されているそうです。もっとも、この票数はイギリス土木学会の組織票もあったと噂されています。

 さて、ひるがえってわが日本で、こうした技術者がランクインすることはあるでしょうか?戦後の経済発展を支えたホンダの本田宗一郎やソニーの井深大は、尊敬する日本人に入るでしょうか?まして、土木系の技術者として、測量の伊能忠敬は別格として、小樽築港の廣井勇、琵琶湖疎水の田辺朔郎、信濃川大河津分水の青山士(あおやまあきら)など、日本の国土開発の先駆者たちはどれほど知られているかというと、地元の人や土木の歴史に関心のある人(そんな人はあまりいません)には知られていても、一般的には今や無名といっても過言ではないと思います。

 田中登はどうでしょう。関東大震災後の東京復興事業に当たり、清洲橋、言問橋、永代橋など隅田川六橋の設計を指揮した技術者です。現在も残る隅田川の橋はその堅牢さと美しさで知られています。田中登の名前は、優れた橋梁設計に与えられる土木学会・田中賞に残っていますが、これまた一般的には無名と言っていいでしょう。ちなみに気仙沼湾にかかる新しい気仙沼湾横断橋が昨年の田中賞を受賞しています。

              隅田川にかかる清洲橋

 一方で建築の世界では「尊敬する日本人ベストテン」に入るかどうかは別として、有名な建築家がいます。古いところでは東京駅や帝国ホテルの設計の辰野金吾、東京都庁、代々木オリンピックスタジアムの丹下健三、黒川紀章、安藤忠雄、近いところでは隈研吾さんなど有名どころが目白押しです。隈研吾さんなんかテレビでも引っ張りだこですよね。

 こうした傾向は世界的にも共通のようです。現代のイギリスでも、アーキテクト(建築家)の方がシビル・エンジニア(土木技術者)よりも評価が高いそうです。「ホテルのチェックインの時、職業欄にアーキテクトと書いた人が、エンジンアと書いた人よりいい部屋に案内された」という話もあるそうです。


令和5年度安全大会を開催しました

2023年08月23日

 8月10日に仙台市旭ヶ丘文化センターにおいて、令和5年度の弊社安全大会を行いました。社員、協力会社34名に加えて、今回は元請会社の大日本ダイヤコンサルタント株式会社様、株式会社東北開発コンサルタント様からも8名のご参加をいただき計42名で行いました。

 まず、CPS労働安全コンサルタント依田幸治様から「不安全行動の防止について」と題した講話を受けました。その中で、不安全行動について「一部の頼りない人(腐ったリンゴ)の行動がなければシステムは順調に動くはずだ、故障や機能不全は頼りない人のせいだ」という古い見方(腐ったリンゴ理論)があった。しかし腐ったリンゴを取り除いても他のリンゴがまた腐るので、環境・システムを変えなければならない、という不安全行動への見方が紹介されました。そして、具体的な行動方法として「指差し呼称の実践」「5Sの徹底」「一声かけ運動」「RA手法による危険予知活動」等についての説明を受けました。

 その後、各グループに分かれて実際にボーリング現場で起きた事故事例を参考にした、RA(リスクアセスメント)手法によるKY(危険予知活動)を行い、各グループからの発表と、講師からのコメントを受けました。グループワークは各グループとも議論が盛り上がり、予定時間をオーバーしてしまい、その後の事務局からの安全活動報告は大幅に短縮しなければなりませんでした。

 お盆休み直前の多忙な時期、しかも例年にない猛暑の中で多くの人に参加していただきました。貴重な時間を使っての安全大会でしたので、講話、グループワークともに今後に生かし、無事故、無災害で現場作業を進めていけるように頑張っていきたいと思います。

             熊谷代表取締役の挨拶

         労働安全コンサルタント依田様の講話

              グループワーク

            グループワークでの討議

     大日本ダイヤコンサルタント株式会社 伊藤副部長からの講評


一紀と二紀はどこへ行ったのか(3)27億年前の大事件

2023年07月21日

 光合成をおこなう生物の誕生は、生物の歴史上もっとも重要な事件です。現在でも深海の熱水噴出孔の硫化水素を利用し、酸素ではなく硫黄を排出する生物がいますが、光合成以前の嫌気性(酸素を嫌う)生物はこうした代謝をしていたと考えられます。

 光合成を始めたのは、シアノバクテリアと呼ばれる藍藻類です。光合成は二酸化炭素(CO2)と水(H2O)を原料とし、太陽光をエネルギーとしてデンプン(C6H12O6)を生成し、酸素(O2)を排出します。この代謝方法はそれ以前に比べ大きなエネルギーをえることができ、生命活動の飛躍的な増大を生み出しました。このことにより、生物は自ら栄養を作り出すとともに、他の生物の食料として利用される「捕食」も始まります。現在に続く「食物連鎖」も始まったのです。

 シアノバクテリアが生み出した酸素は、まず海水中にある鉄イオンと反応し酸化鉄となって海底に大量に堆積しました。これが現在も採掘されている鉄鉱石である「縞状鉄鉱層」です。鉄イオンは約22億年前から19億年前にかけて酸化鉄となり堆積し尽くします。その後酸素は海中から大気中に広がり、およそ酸素濃度は15%程度にまでなったと言われます。

  オーストラリアの縞状鉄鉱層(九州大学理学部ホームページより引用)

 酸素濃度の増加は二酸化炭素の減少でもあります。酸素―二酸化炭素の濃度変化はその後の地球の温度、気候に極めて重要な影響を与えていきます。さらに、大気中に広がった酸素は、太陽の紫外線によって分解され、O3(オゾン)となっていきます。長い時間をかけて成層圏にできたオゾン層は、生命にとって有害な紫外線のバリアとなっていきました。

 もう一つの大事件が、地球磁場の発生です。方位磁石は、N極は北を、S極は南を指します。これは地球自体が大きな磁石になり、地球全体を囲む磁場を持っているからです。この地球磁場は地球上の生命を守るうえで、きわめて大きな役割を果たしています。

 地球は常に宇宙空間から有害な宇宙線(主には銀河系内からの高エネルギーの放射線)を浴びています。この宇宙線は細胞内のDNAを破壊する力を持っています。また、太陽からの有害な放射線(太陽風)もやってきます。地球磁場はこれらの宇宙線や太陽風をはじくバリアの役割を果たしています。地球磁場が成立する前は、生命は海水によってしか守られておらず、浅い海に進出できませんでした。地球磁場の発生とオゾン層により、生命は浅い海に進出して、さらに活発な光合成をおこなうようになりました。そして、やがて生命の地上への進出も可能にしたのです。

      地球磁場の概念図(産業技術総合研究所より)

 地球磁場がどうやってできたのか、次のように考えられています。

 上下二層のマントル対流は、約27億年前に密度の異なる上部マントルと下部マントルで大きな対流をはじめました。沈み込み帯から地球内部に供給された冷たいプレートの残骸が蓄積し、ついに下部マントルに沈み込み、その反動で別の領域から上昇流が起きました。このマントル全体を巻き込んだ対流の開始を「マントルのオーバーターン」と呼んでいます。

 下の図は、マントル対流の概念図です。初期のマントル対流は(a)のように上下二層で対流し、上部は小さくて数の多い対流をしていました。(b)は「マントルのオーバーターン」以後の対流です。マントル全体で対流し、外核からスパープルームも上昇してきています。

 このことにより、マントルと接する外核の冷却が進みます。液体金属でできている外核はマントルより動きやすく、外核内部の対流が活発になり、電流を発生させます。これが地球ダイナモ(発電機)であり、地球自体が巨大な電磁石となり、磁場を発生させていると考えられています。

 マントル対流の大規模化はもう一つの変化をもたらしました。超大陸の誕生です。対流の規模が大きくなると、プレートの規模も大きくなります。沈み込み帯にできる陸地が次第に大きくなり、やがて集合し超大陸へを成長します。最初の超大陸「ヌーナ」が姿を現したのは約19億年前とされています。 

 ヌーナは現在の北米大陸よりやや大きい規模だったと考えられています。ヌーナから始まった超大陸は、プレートテクトニクスにより、分裂と集合を繰り返す超大陸サイクルの時代に入っていきます。約11億年前の「ロディニア」、5億5千年前の「ゴンドワナ」、3億年前の「パンゲア」という四つの超大陸ができ、その都度超大陸の規模は大きくなっていきました。

 パンゲアは中生代の終わりごろ、約1億年前に分裂をはじめました。大陸中央の分裂帯は広がり続け、やがて大西洋が生まれ、大西洋中央海嶺になっていきました。そして六つの大陸に分裂しているのが現在です。やがて大西洋が唯一の大洋となり、すべての大陸は、現在の北極海付近で再び集合すると考えられています。2~3億年後にユーラシア大陸を中心とする超大陸「アメイジア」が誕生すると予想されています。「アメイジア」とは、アメリカとユーラシアがつながった土地、という意味です。

 「一紀、二紀」の話から、地球の黎明期の話になりました。ほんの50年前まで闇の彼方と思われていた時代に何が起きていたのか、これほど多くのことがわかってきたことに驚くばかりです。これらのことは地質学だけでなく、地球物理学、地球化学など地球科学全体の研究の中で分かってきたことです。もちろんこれからの研究で新たな発見があり、歴史の書き替えもあるでしょう。

 それにしても、地質学者おそるべし。山の中で、コンコンとハンマーで石を叩いている地質学者が(もちろんそれだけやっているわけではないのですが)地道に地質図を作り、解析し、こうした歴史を編み上げてきたことは本当に素晴らしい偉業だと頭が下がります。多くの人に地質学者の仕事、地質学の果たしている役割の大きさを知ってほしいと思っています。

※この項の主な参考文献 

鎌田浩毅「地球の歴史(上・中・下)」中公新書

サイモン・ウィンチェスター著、中野邦子訳「世界を変えた地図~ウィリアム・スミスと地質学の誕生」早川書房