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令和3年 明けましておめでとうございます

2021年01月05日

 令和3年、新しい年を迎えました。

 新型コロナウィルスの流行が第三波になっていると言われ、年末には全国で1,000人以上の感染者が出てきています。1月7日には、東京都をはじめ一都三県に「緊急事態宣言」が発出される予定だそうです。当社は比較的新型コロナ禍の影響を受けにくい仕事ですが、観光業や飲食業の方たちは本当に深刻な状況です。一日も早い終息を願うばかりです。

 当社も恒例の忘年会、新年会もなく、寂しい年末年始となりました。私もそうですが、社員の皆さんもおとなしく自宅で過ごした人が多かったようです。新年の安全祈願も、いつもは神職を迎えて会社事務所で執り行うのですが、今年は代表者のみ二柱神社でお祓いを受けてきました。

 一方で年末年始はここ数年ないほどの本格的な寒波となり、日本海側ほどではないにしろ連日の積雪で、毎日雪かきです。腰が痛くなりました。これからもまだ積雪が予想される地域での仕事がありますので、焦らず安全に現場を進めていきたいと思います。

 「明けない夜はない」とよく言われます。今年一年、また社員一同頑張っていきたいと思っています。

         二柱神社で宮司さんのお祓いを受けました

        新年の二柱神社 今年は参詣客も少ないです


手前味噌ですが・・・

2020年12月16日

 ホームページを昨年4月に改装して、1年8カ月が過ぎました。改装は求職する方に対して「当社がどういう会社で何をしているのか」について理解してもらうことを一番の目的にしていました。

 今年は新型コロナウィルス流行の影響で求人数が激減し、宮城県内の有効求人倍率は昨年10月の1.57(常用的フルタイム有効求人倍率)から、今年10月は1.16に落ちています。この低下はほぼ全産業に共通していますが、唯一の例外が建設業です。昨年10月に比べ、1%の微増となっています。(2020年12月1日宮城労働局発表)

         2020年12月1日宮城労働局発表の資料より

 当社は建設業ではありませんが、建設関連業に分類されています。建設業同様、この業界も高齢化が進み、引退する人に比べ入ってくる若い人が少ないのが実情です。本当に大事な仕事なので残念なことです。この現状を何とか変え、業界(と当社)の将来を担う若い人たちに入ってきてほしいと願いホームページを改装しました。

 地質調査、ボーリングは目につきにくい仕事です。建設業であれば、ビルを建てる、橋を架けると、目に見えますから比較的わかりやすいのですが、地質調査は建設を始める前のいわば裏方の目立たない仕事です。そもそもこんな仕事があることを知らない人も多いと思います。「仕事はボーリングです」と言うと、だいたい球をゴロゴロ転がす「ボウリング」だと思われます。

 このブログも、当社の仕事と内容を知ってほしいという思いでせっせと書き続けています。手前味噌のようですが、ホームページを見てくださっている人もだんだん増えてきています。改装当時は1日5人とか10人程度だったのが、最近では1日40~50人くらい、多い日は80人ほどの人が見てくれています。ただ、誰が見てくれているのかはわかりません。

「お問い合わせフォーム」にくるメールは営業メールばっかりです。

「顧客拡大のためのアポイントを取る営業代行をします」とか「お客様が画期的に増える動画を低額で作成します」といったメールですね。

 ところで話がずれますが、会社の規模が小さいということもあり、当社には創業当時から営業専属の社員がいません。営業をしないわけではないのですが、基本的に日々の業務とその技術的成果が営業であるという考え方でやってきました。

 ホームページとブログは、営業も目的のひとつですが、それよりも、ハローワークや学校で求人票を見たり、ネットの求人媒体での記事を見て興味を持った人が「どんな会社かな?」とホームページを見たときに、「こんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と理解してもらうことを目的にしています。そのためこのブログも、以下のことをテーマに書いています。

・当社の業務である地質調査・ボーリングとはどのようなものか。

・当社がどんな雰囲気の会社なのか、どういう考えで運営しているのか。

・建設工事と地質調査の関係について。

・地質調査と応用地質学の大きな分野である防災に関して、水害、土砂災害、地震災害などの情報と、歴史的背景につ いて。これについては、被害を少なくする防災・減災に少しでも役立てればという思いもあります。

 こうしたことをこれから入ってくる人を対象に書いているので、専門技術者から見ると大雑把であり、ち密さにかける文章だという指摘があろうかと思います。書いている私(代表熊谷です)は、社員の家族が読んで「うちのお父さん・お母さんの会社はこんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と分かってもらえることをイメージしています。とはいえときどき脱線し、私の思いが先行し難しくしてしまったかなと思う文章もあります(「温暖化について」など)。

 というわけで、実際の経験や感じたことなどもおりまぜながら、なるべく具体的に書いていきたいと思っています。書いている人間の体温が感じられる文章の方が、親しみやすく入りやすいと思うからです。営業だけでなく、読んでみての感想も「お問い合わせフォーム」から頂けると幸いです。(匿名でもかまいません)


平庭峠の白樺

2020年11月07日

                平庭峠の白樺林

 仕事で岩手県久慈市に時々出かけます。仙台から久慈に向かう場合、東北道から九戸インターか軽米インターで降りて一般道を使うのが普通ですが、急がない時は滝沢インターから沼宮内、葛巻を通って久慈まで走ります。わざわざ時間をかけるのは、平庭峠の白樺林を見たいからです。特に新緑、紅葉の時期の平庭峠は絶品で、観光の目玉のひとつになっています。

 ところで、白樺というと長野、北海道は有名ですが、東北地方でこれだけの白樺林があるのは平庭峠だけだと思います。白樺は、この地域の山地の雑木林の中にある樹種ですが、ミズナラなどに混じってまれにぽつぽつとみられる程度です。なぜここだけがそうなっているのか、以前から不思議でしたが、あるとき「山形村史」を読んでこの謎が解けました。

 「山形村史」によると、山形村(現在では合併により久慈市山形村になっています)と隣の葛巻町では、昔から林業、特に薪炭業(炭焼きですね)が盛んでした。ところが、白樺は材質が柔らかすぎるため、建築材としても、薪炭材としても役に立たず、ミズナラ、クヌギ、ブナなどの有用材をだけを伐採し白樺はそのまま残したのだそうです。さらに白樺は陽樹、日の当たるところで幼樹が成長する木のため、ほかの木の伐採後にどんどん増えてしまい、現在のほぼ純林状態になった、つまり結果として人工的な林になったということです。

 そういうわけで観光資源となった白樺林ですが、白樺は成長が早い一方で、寿命が短いという特徴があります。おおむね80年から100年程度の寿命だと言われています。また、白樺の林の下からは、陰樹(日陰で成長する樹種)であるミズナラなどが成長し、白樺は世代交代できないことになります。したがって、そのまま放置しておくと再び東北地方本来のミズナラ、ブナ林に戻ってしまう運命にあります。

 この白樺の純林がこのまま維持されていくのか、あるいは岩手県北部に特徴的なミズナラ、クヌギ、クリ、カエデなどの混合林に戻ってしまうのかはまだわかりません。いずれにしても自然は必ずしも「自然のまま」にあるわけではないことを感じさせられます。ただ、これは長い時間の中で変化していくものなので、まだしばらくは今の美しい白樺林が見られるものと期待しています。


北上川についていろいろ(6)明治以降の北上川下流域の改修

2020年10月19日

 明治維新後、大久保利通を中心とした新政府は、殖産興業のための社会資本整備と不平士族の職業対策として土木事業を進めました。この事業として進められたものが、琵琶湖疎水、安積疎水であり、宮城県内では貞山運河、北上運河の整備、野蒜築港事業がありました。

 こうした近代的国土整備の一環として明治29年に旧「河川法」が制定されます。それでも北上川流域の整備が大きく進められるにはきっかけが必要でした。そのきっかけになったのが明治43年水害です。

 明治43年8月、関東・甲信越・東北地方の太平洋側を中心に1都15県で豪雨があり、利根川、荒川、多摩川、信濃川、富士川、北上川、阿武隈川などで破堤・氾濫が起こり、土砂災害と合わせ死者・行方不明者2,497人、堤防決壊約7,000箇所、橋の流失約7,200箇所、山崩れ約18,800箇所という大被害が発生しました。宮城県内でも320人の死者・行方不明者が出ています。

          明治43年水害 東京下谷区の被害状況

 その損失額は約1億1,200万円、当時の国民所得の3.6%に相当したといわれています。この災害を契機に、第1次治水長期計画が制定され、北上川も直轄施工河川として治水工事に着手することになりました。この時の北上川改修の目玉は、川村孫兵衛が締め切った柳津-飯野川間を再度開通し、追波川に北上川本流の水を流すことでした。

 明治44年1月から開かれた帝国議会衆議院で、内務省技師(旧内務省は現在の国交省、総務省、警察庁などの機能を合わせた巨大な権限を持った官庁でした)沖野忠雄は次のように述べています。

「北上川の治水策は難しいのでありますが、(中略)柳津というところがあります。其の柳津から1本新川を作り(略)追波川に落とす。本流は石巻の港に落とす。(略)そうすると洪水の逆流を一切避けることができるのであります。」

 というわけで柳津-飯野川間の新北上川の開削から北上川第1期改修工事が始まりました。ただこのためには、柳津町の市街地が流路になるため、市街地の三百軒が移転するという犠牲を必要としました。工事は大正元年11月に始まり昭和6年3月に新北上川は通水します。

          蒸気機関を用いた新北上川の掘削工事

 その後改修工事は以下のように進みます。

・飯野川-追波湾の間の浚渫

・柳津から上流のかさ上げによる既設堤防の強化

・石巻湾の浚渫、河口導流堤の建設

・飯野川可動堰の建設

・旧北上川との分流点に鴇波洗堰、脇谷洗堰の建設

 また、懸案であった迫川の改修は、新北上川の通水後、昭和7年に登米市山吉田から旧北上川へのショートカット工事が始まり、これが現在の迫川になっています。迫川の開削工事終了は昭和15年(1940年)、登米郡住民の悲願は実に300年かかって実現したことになります。

 北上川と旧北上川の分流施設である鴇波水門、脇谷水門の完成は平成20年3月、これをもって北上川改修工事は一応の完成を見ました。これらの分流工事の結果、現在の計画高水流量(百年確率で最大の水量が流れたときの計画流量)は、北上川(追浜川)が8,700m3/毎秒、旧北上川(石巻)が2,500m3/毎秒となりました。これは、狐禅寺狭窄部以北の岩手県側に降った雨は追波湾に流す、宮城県側に降った雨は石巻湾に流すということを意味しています。(これは想定最大降水の場合であり、普段はその時々の水量を勘案して分流しているわけです)

 現在の北上川下流域の複雑なありかたは、伊達政宗の着手以来400年にわたった治水工事の結果だったのです。

        北上川と旧北上川を分流する現在の脇谷水門

           明治以降の北上川下流域の流路

主な参考文献・資料

「日本の自然2・東北」岩波書店

「北上川物語」河北新報社

地域地質研究報告「登米地域の地質」

内田和子「一関遊水地の展開過程」(1984)

松浦茂樹「明治43年水害と第一次治水長期計画の策定」(2008)

阿子島功「北上川中下流域の河谷底の構造」(1968)

  〃 「磐井丘陵の地形」(1969)

大熊孝「洪水と治水の河川史」平凡社

国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所ホームページ

    〃       北上川下流河川事務所ホームぺージ

国道交通省関東地方整備局ホームページ

一関市ホームページ


北上川についていろいろ(5)北上川下流の流路のなぞ(つづき)

2020年10月07日

 勾配の緩い河川の水害対策は大変難しく、分流して排水するしか方法がないとさえ言われています。新潟平野では、信濃川を大河津で分水したり、阿賀野川を分流し松ヶ崎放水路で日本海に排水することで常襲的氾濫を解決しました。(分流前の阿賀野川は信濃川と河口近くで1本に合流して日本海に注いでいました。松ヶ崎放水路がそのまま本流河口になることで信濃川と阿賀野川は別の河口を持つことになり、このことが、新潟平野の排水を大きく進めることになりました)このように見ると、伊達政宗、川村孫兵衛が北上川・迫川・江合川を1本に合流させ、石巻から太平洋に排水するのは水害対策の定石に反しています。

 江合川はもともと和渕山の西側を流れ、現在の定川を通って石巻湾に注いでいました。江合川と北上川の合流点の地形図を見るとわかるとおり、神取山の東側を流れていた北上川(迫川)の流路を西側に変え、わざわざ神取山と和渕山の間を開削して江合川を狭い流路で合流させただけでなく、人工的な狭窄部を作っています。このことにより、迫川下流部の約5,000haが遊水地化し、迫川流域は水害の常襲地帯となってしまいました。

     現在の旧北上川・迫川・江合川の合流部:人工的な狭窄部があることがわかる

              陸地測量部大正4年測図地形図

 大正4年測図の旧版地形図を見ると、神取山の合流点から江合川左岸、迫川流域が広い荒地になっています。現在では同じ場所は新迫川の開削などにより広い水田地帯になっていますが、大正4年でもまだ遊水地のままです。

 近世以降の記録から、北上川下流域の水害の特徴として、迫川の洪水がきわめて多く、北上川本流の水害が少ないということがわかっています。「若柳町誌」によると「三年一作」つまり3年に1度しかまともにコメが獲れないといわれたほどです。迫川、江合川流域の住民は、新川開削による水害解決の願いを何度も出していますが、仙台藩はこれを認めることがありませんでした。

 政宗-孫兵衛コンビによる北上川の流路改修の大きな狙いは、北上川の水運の確保にありました。仙台藩64万石、実高100万石と言われましたが、盛岡藩も含めた北上川流域の米を千石船で江戸に運搬し、売却することで藩財政を支えることが仙台藩の目的であり、そのためには北上川の流量を増やし、船が常時運行できるだけの水深を確保すること、積出港である石巻を水害から守ることを最大の目的として北上川の改修工事を行ったと考えられています。その狙いは成功し、江戸の米の消費量の実に3分の1以上が、石巻から運ばれた仙台米であったと言われているほどです。

 江戸時代初頭の改修工事でできた北上川の流路は藩政時代には変わることがありませんでした。この政宗-孫兵衛コンビの負の遺産を解決することが、明治から昭和にかけて行われた近代的な北上川改修の目的となりました。それはまた、明治以降の鉄道の発達により、国内流通における水運の占める位置が低下することによって可能となったのです。