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信濃川についていろいろ(4)千曲川の水害(つづき)

2024年06月07日

 寛保2年(1742年)7月28日から8月1日にかけて近畿から中部、関東甲信越を襲った水害は、特に千曲川流域と関東南部に大きな被害を及ぼし、近世日本における最大級の水害と言われています。利根川、荒川周辺の水害は寛保二年江戸水害と呼ばれ、下流の江戸下町は高潮とあいまって一面が湖のようになったと伝わっています。関東での死者は14,000人を超えたと言われています(資料によりだいぶ差があります)。

 千曲川流域でも死者は3,000人と想定されており、やはり近世以降長野県で最大の被害の出た水害とされています。この年が戌年であったことから、信濃では「戌(いぬ)の満水」と呼ばれました。犀川流域では比較的被害が少なく、小諸、上田、松代(長野を中心とした北信地域)に被害が集中し、関東山地に降った豪雨が、関東地方では利根川、荒川に流出し、長野では千曲川に流出したものと考えられます。

 新潟県津南より下流の信濃川では、増水による氾濫で農地や家屋の被害は甚大でしたが、死者数は6人と意外なほど少なかったと記録されています。

(※丸山岩三「寛保2年の千曲川水害に関する研究」より)

 信濃の国のもうひとつの近世の大災害が1847年(弘化4年)の善光寺地震です。この地震は長野盆地の西縁に沿って分布する、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)が約50kmにわたって動くことで発生した、M7.4(想定)の地震です。長野盆地西縁断層の北西側が約2m隆起した典型的な直下型地震で、震源が極めて浅かったため、地表が激甚な揺れに見舞われ、大規模な災害となりました。

              長野盆地西縁断層の位置

 地震は旧暦3月24日(新暦5月8日)後の10時ごろに発生し、ちょうど7年に1度の善光寺如来御開帳にあたっていて、全国から多くの参詣者が集まっていました。門前町が大変な賑わいだったところに激震が襲い、火事と家屋の倒壊で数千人の死者が出ました。

                善光寺本堂

    善光寺地震の火事を描いた絵 「地震後世俗語之種」より

 善光寺地震では広範囲にわたる山地災害が発生し、松代藩領(現在の長野市、飯山市などの北信地方)だけで約4万2000カ所に及ぶ地すべりや崩壊が発生しました。特に長野市西方の地域に集中し、犀川とその支流の土尻川、裾花川流域で著しく発生しました。

 逆断層では一般に上盤側で大きな被害が出ることが多いことに加え、地層が主に新第三紀層の凝灰岩、砂岩、泥岩で構成され、風化が進んだ場所では崩れやすく、もろい岩盤となっていました。その中でも、犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の大崩壊が二次被害を大きくしました。激震によって岩倉山の南西と北西斜面が崩壊し犀川を閉塞したのです。

 この河道閉塞により高さおよそ60m、湛水量3.5億m3と推定される巨大な天然ダムが形成されました。水位は徐々に上昇し、16日後には満水状態になりましたが、崩壊土量が多く、越流し始めてから崩壊するまで時間がかかり、決壊したのは19日後になりました。

 決壊した犀川の流れは善光寺平を襲い、その高さはおよそ20m、その後平野部に出てから流れが広がったため、高さを減じていきますが、小布施で10m、飯山で4m、下流の長岡でも1.5mの高さになったと伝わっています。その後およそ24時間で洪水流は日本海に達しました。

 数日前から決壊が予想され、警戒態勢が敷かれていたため、多くの住民が避難でき、この土石流による犠牲者は松代藩で22名、中野代官所管内で4名と比較的少なかったとされています。しかし、農地、家屋の被害は甚大で、その復旧には長期間がかかったのです。

 千曲川流域での近世で大きな被害が出た災害を2例取り上げました。少ない事例ですが、その特徴は、信濃の国が山国であり、山地に降った雨が一挙に川に集中し氾濫被害が大きくなりやすいこと、特に地形的な弱点である狭窄部と千曲川、犀川の合流点のある長野市から飯山市に被害が集中しやすいこと、土砂災害の発生が多いことがあげられると思います。

 では、下流部の信濃川の特徴は何か、次回以降見ていきましょう。