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手前味噌ですが・・・

2020年12月16日

 ホームページを昨年4月に改装して、1年8カ月が過ぎました。改装は求職する方に対して「当社がどういう会社で何をしているのか」について理解してもらうことを一番の目的にしていました。

 今年は新型コロナウィルス流行の影響で求人数が激減し、宮城県内の有効求人倍率は昨年10月の1.57(常用的フルタイム有効求人倍率)から、今年10月は1.16に落ちています。この低下はほぼ全産業に共通していますが、唯一の例外が建設業です。昨年10月に比べ、1%の微増となっています。(2020年12月1日宮城労働局発表)

         2020年12月1日宮城労働局発表の資料より

 当社は建設業ではありませんが、建設関連業に分類されています。建設業同様、この業界も高齢化が進み、引退する人に比べ入ってくる若い人が少ないのが実情です。本当に大事な仕事なので残念なことです。この現状を何とか変え、業界(と当社)の将来を担う若い人たちに入ってきてほしいと願いホームページを改装しました。

 地質調査、ボーリングは目につきにくい仕事です。建設業であれば、ビルを建てる、橋を架けると、目に見えますから比較的わかりやすいのですが、地質調査は建設を始める前のいわば裏方の目立たない仕事です。そもそもこんな仕事があることを知らない人も多いと思います。「仕事はボーリングです」と言うと、だいたい球をゴロゴロ転がす「ボウリング」だと思われます。

 このブログも、当社の仕事と内容を知ってほしいという思いでせっせと書き続けています。手前味噌のようですが、ホームページを見てくださっている人もだんだん増えてきています。改装当時は1日5人とか10人程度だったのが、最近では1日40~50人くらい、多い日は80人ほどの人が見てくれています。ただ、誰が見てくれているのかはわかりません。

「お問い合わせフォーム」にくるメールは営業メールばっかりです。

「顧客拡大のためのアポイントを取る営業代行をします」とか「お客様が画期的に増える動画を低額で作成します」といったメールですね。

 ところで話がずれますが、会社の規模が小さいということもあり、当社には創業当時から営業専属の社員がいません。営業をしないわけではないのですが、基本的に日々の業務とその技術的成果が営業であるという考え方でやってきました。

 ホームページとブログは、営業も目的のひとつですが、それよりも、ハローワークや学校で求人票を見たり、ネットの求人媒体での記事を見て興味を持った人が「どんな会社かな?」とホームページを見たときに、「こんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と理解してもらうことを目的にしています。そのためこのブログも、以下のことをテーマに書いています。

・当社の業務である地質調査・ボーリングとはどのようなものか。

・当社がどんな雰囲気の会社なのか、どういう考えで運営しているのか。

・建設工事と地質調査の関係について。

・地質調査と応用地質学の大きな分野である防災に関して、水害、土砂災害、地震災害などの情報と、歴史的背景につ いて。これについては、被害を少なくする防災・減災に少しでも役立てればという思いもあります。

 こうしたことをこれから入ってくる人を対象に書いているので、専門技術者から見ると大雑把であり、ち密さにかける文章だという指摘があろうかと思います。書いている私(代表熊谷です)は、社員の家族が読んで「うちのお父さん・お母さんの会社はこんな会社なんだ、こんな仕事をしているんだ」と分かってもらえることをイメージしています。とはいえときどき脱線し、私の思いが先行し難しくしてしまったかなと思う文章もあります(「温暖化について」など)。

 というわけで、実際の経験や感じたことなどもおりまぜながら、なるべく具体的に書いていきたいと思っています。書いている人間の体温が感じられる文章の方が、親しみやすく入りやすいと思うからです。営業だけでなく、読んでみての感想も「お問い合わせフォーム」から頂けると幸いです。(匿名でもかまいません)


平庭峠の白樺

2020年11月07日

                平庭峠の白樺林

 仕事で岩手県久慈市に時々出かけます。仙台から久慈に向かう場合、東北道から九戸インターか軽米インターで降りて一般道を使うのが普通ですが、急がない時は滝沢インターから沼宮内、葛巻を通って久慈まで走ります。わざわざ時間をかけるのは、平庭峠の白樺林を見たいからです。特に新緑、紅葉の時期の平庭峠は絶品で、観光の目玉のひとつになっています。

 ところで、白樺というと長野、北海道は有名ですが、東北地方でこれだけの白樺林があるのは平庭峠だけだと思います。白樺は、この地域の山地の雑木林の中にある樹種ですが、ミズナラなどに混じってまれにぽつぽつとみられる程度です。なぜここだけがそうなっているのか、以前から不思議でしたが、あるとき「山形村史」を読んでこの謎が解けました。

 「山形村史」によると、山形村(現在では合併により久慈市山形村になっています)と隣の葛巻町では、昔から林業、特に薪炭業(炭焼きですね)が盛んでした。ところが、白樺は材質が柔らかすぎるため、建築材としても、薪炭材としても役に立たず、ミズナラ、クヌギ、ブナなどの有用材をだけを伐採し白樺はそのまま残したのだそうです。さらに白樺は陽樹、日の当たるところで幼樹が成長する木のため、ほかの木の伐採後にどんどん増えてしまい、現在のほぼ純林状態になった、つまり結果として人工的な林になったということです。

 そういうわけで観光資源となった白樺林ですが、白樺は成長が早い一方で、寿命が短いという特徴があります。おおむね80年から100年程度の寿命だと言われています。また、白樺の林の下からは、陰樹(日陰で成長する樹種)であるミズナラなどが成長し、白樺は世代交代できないことになります。したがって、そのまま放置しておくと再び東北地方本来のミズナラ、ブナ林に戻ってしまう運命にあります。

 この白樺の純林がこのまま維持されていくのか、あるいは岩手県北部に特徴的なミズナラ、クヌギ、クリ、カエデなどの混合林に戻ってしまうのかはまだわかりません。いずれにしても自然は必ずしも「自然のまま」にあるわけではないことを感じさせられます。ただ、これは長い時間の中で変化していくものなので、まだしばらくは今の美しい白樺林が見られるものと期待しています。


北上川についていろいろ(6)明治以降の北上川下流域の改修

2020年10月19日

 明治維新後、大久保利通を中心とした新政府は、殖産興業のための社会資本整備と不平士族の職業対策として土木事業を進めました。この事業として進められたものが、琵琶湖疎水、安積疎水であり、宮城県内では貞山運河、北上運河の整備、野蒜築港事業がありました。

 こうした近代的国土整備の一環として明治29年に旧「河川法」が制定されます。それでも北上川流域の整備が大きく進められるにはきっかけが必要でした。そのきっかけになったのが明治43年水害です。

 明治43年8月、関東・甲信越・東北地方の太平洋側を中心に1都15県で豪雨があり、利根川、荒川、多摩川、信濃川、富士川、北上川、阿武隈川などで破堤・氾濫が起こり、土砂災害と合わせ死者・行方不明者2,497人、堤防決壊約7,000箇所、橋の流失約7,200箇所、山崩れ約18,800箇所という大被害が発生しました。宮城県内でも320人の死者・行方不明者が出ています。

          明治43年水害 東京下谷区の被害状況

 その損失額は約1億1,200万円、当時の国民所得の3.6%に相当したといわれています。この災害を契機に、第1次治水長期計画が制定され、北上川も直轄施工河川として治水工事に着手することになりました。この時の北上川改修の目玉は、川村孫兵衛が締め切った柳津-飯野川間を再度開通し、追波川に北上川本流の水を流すことでした。

 明治44年1月から開かれた帝国議会衆議院で、内務省技師(旧内務省は現在の国交省、総務省、警察庁などの機能を合わせた巨大な権限を持った官庁でした)沖野忠雄は次のように述べています。

「北上川の治水策は難しいのでありますが、(中略)柳津というところがあります。其の柳津から1本新川を作り(略)追波川に落とす。本流は石巻の港に落とす。(略)そうすると洪水の逆流を一切避けることができるのであります。」

 というわけで柳津-飯野川間の新北上川の開削から北上川第1期改修工事が始まりました。ただこのためには、柳津町の市街地が流路になるため、市街地の三百軒が移転するという犠牲を必要としました。工事は大正元年11月に始まり昭和6年3月に新北上川は通水します。

          蒸気機関を用いた新北上川の掘削工事

 その後改修工事は以下のように進みます。

・飯野川-追波湾の間の浚渫

・柳津から上流のかさ上げによる既設堤防の強化

・石巻湾の浚渫、河口導流堤の建設

・飯野川可動堰の建設

・旧北上川との分流点に鴇波洗堰、脇谷洗堰の建設

 また、懸案であった迫川の改修は、新北上川の通水後、昭和7年に登米市山吉田から旧北上川へのショートカット工事が始まり、これが現在の迫川になっています。迫川の開削工事終了は昭和15年(1940年)、登米郡住民の悲願は実に300年かかって実現したことになります。

 北上川と旧北上川の分流施設である鴇波水門、脇谷水門の完成は平成20年3月、これをもって北上川改修工事は一応の完成を見ました。これらの分流工事の結果、現在の計画高水流量(百年確率で最大の水量が流れたときの計画流量)は、北上川(追浜川)が8,700m3/毎秒、旧北上川(石巻)が2,500m3/毎秒となりました。これは、狐禅寺狭窄部以北の岩手県側に降った雨は追波湾に流す、宮城県側に降った雨は石巻湾に流すということを意味しています。(これは想定最大降水の場合であり、普段はその時々の水量を勘案して分流しているわけです)

 現在の北上川下流域の複雑なありかたは、伊達政宗の着手以来400年にわたった治水工事の結果だったのです。

        北上川と旧北上川を分流する現在の脇谷水門

           明治以降の北上川下流域の流路

主な参考文献・資料

「日本の自然2・東北」岩波書店

「北上川物語」河北新報社

地域地質研究報告「登米地域の地質」

内田和子「一関遊水地の展開過程」(1984)

松浦茂樹「明治43年水害と第一次治水長期計画の策定」(2008)

阿子島功「北上川中下流域の河谷底の構造」(1968)

  〃 「磐井丘陵の地形」(1969)

大熊孝「洪水と治水の河川史」平凡社

国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所ホームページ

    〃       北上川下流河川事務所ホームぺージ

国道交通省関東地方整備局ホームページ

一関市ホームページ


北上川についていろいろ(5)北上川下流の流路のなぞ(つづき)

2020年10月07日

 勾配の緩い河川の水害対策は大変難しく、分流して排水するしか方法がないとさえ言われています。新潟平野では、信濃川を大河津で分水したり、阿賀野川を分流し松ヶ崎放水路で日本海に排水することで常襲的氾濫を解決しました。(分流前の阿賀野川は信濃川と河口近くで1本に合流して日本海に注いでいました。松ヶ崎放水路がそのまま本流河口になることで信濃川と阿賀野川は別の河口を持つことになり、このことが、新潟平野の排水を大きく進めることになりました)このように見ると、伊達政宗、川村孫兵衛が北上川・迫川・江合川を1本に合流させ、石巻から太平洋に排水するのは水害対策の定石に反しています。

 江合川はもともと和渕山の西側を流れ、現在の定川を通って石巻湾に注いでいました。江合川と北上川の合流点の地形図を見るとわかるとおり、神取山の東側を流れていた北上川(迫川)の流路を西側に変え、わざわざ神取山と和渕山の間を開削して江合川を狭い流路で合流させただけでなく、人工的な狭窄部を作っています。このことにより、迫川下流部の約5,000haが遊水地化し、迫川流域は水害の常襲地帯となってしまいました。

     現在の旧北上川・迫川・江合川の合流部:人工的な狭窄部があることがわかる

              陸地測量部大正4年測図地形図

 大正4年測図の旧版地形図を見ると、神取山の合流点から江合川左岸、迫川流域が広い荒地になっています。現在では同じ場所は新迫川の開削などにより広い水田地帯になっていますが、大正4年でもまだ遊水地のままです。

 近世以降の記録から、北上川下流域の水害の特徴として、迫川の洪水がきわめて多く、北上川本流の水害が少ないということがわかっています。「若柳町誌」によると「三年一作」つまり3年に1度しかまともにコメが獲れないといわれたほどです。迫川、江合川流域の住民は、新川開削による水害解決の願いを何度も出していますが、仙台藩はこれを認めることがありませんでした。

 政宗-孫兵衛コンビによる北上川の流路改修の大きな狙いは、北上川の水運の確保にありました。仙台藩64万石、実高100万石と言われましたが、盛岡藩も含めた北上川流域の米を千石船で江戸に運搬し、売却することで藩財政を支えることが仙台藩の目的であり、そのためには北上川の流量を増やし、船が常時運行できるだけの水深を確保すること、積出港である石巻を水害から守ることを最大の目的として北上川の改修工事を行ったと考えられています。その狙いは成功し、江戸の米の消費量の実に3分の1以上が、石巻から運ばれた仙台米であったと言われているほどです。

 江戸時代初頭の改修工事でできた北上川の流路は藩政時代には変わることがありませんでした。この政宗-孫兵衛コンビの負の遺産を解決することが、明治から昭和にかけて行われた近代的な北上川改修の目的となりました。それはまた、明治以降の鉄道の発達により、国内流通における水運の占める位置が低下することによって可能となったのです。


北上川についていろいろ(4)北上川下流の流路のなぞ

2020年09月15日

 ある石巻市民の方が「おらほの川が北上川なので、旧北上川という呼び方はやめてほしい」と東北地方整備局北上川下流河川事務所の所長に言っているのを聞いたことがあります(所長は苦笑いしていました)。

 北上川、旧北上川、新北上川、迫川、旧迫川、江合川、新江合川と北上川下流域は、江戸時代からの改修に次ぐ改修で新旧の流路が入り乱れ、何が何だかよくわからない状態です。 

 まず、そもそも北上川本流の河口はどこにあったのか。「明治以前大日本土木史」によると、北上川は佐沼の南から今の迫川を通り、飯野川から追波湾に抜けていたとしています。下に示す「貞山・北上・東名運河事典」の「慶長9年までの流路」はこれに基づいていると思われます。

            慶長以前の北上川流路

   「貞山・北上・東名運河事典」ホームページより(以下同じ)

 一方で石巻市河口付近のボーリングデータによる断面図を見ると、旧北上川付近と定川付近に深度約80mの二つの深い埋没谷が見られます。石巻市と東松島市の境を流れる定川は、現在はほんの小河川ですが、改修工事前の江合川本流であり、定川は江合川の名残川です。

 埋没谷は、今より100m以上海面が低かった氷河期に河川が作った谷が、氷河期終了(約1万年前)以降に川が運んだ土砂で埋められたものです。これだけ深い埋没谷があることから、古い時代から北上川本流、あるいは分岐した川でも相当の水量のある川がここにあったと考えるのが自然でしょう。先の流路図のような小河川とは考えにくいところです。石巻市民の意見ももっともです。

 一方、阿子島(1968)は「追波川沿いに最大-95m以下の埋没谷が認められ、北上川は石巻港へ注ぐ旧北上川沿いの流路とともに追波湾に注ぐ、新北上川~追波川の二つの流路が存在した」と述べています。

 狐禅寺の狭窄部を抜けた北上川が、人の手が加わる前にどこを流れていたのか、実はよくわかっていません。北上川下流域は非常に勾配の緩い土地なので、大出水のたびに流路を変え、広大な遊水池帯となっていたと考えられます。北上川、迫川、江合川、鳴瀬川はくっついたり離れたりをくり返していたのではないでしょうか。

 北上川だけでなく、利根川や信濃川などの大河川の下流域の平野部は、自然状態では「水腐れ地」と呼ばれる排水の悪い、葦が繁茂する低地が大きな面積を占めていました。水質が悪く飲料水を得ることも難しく、耕作にも不適な土地です。江戸時代以来、瀬替え、分離、分水などの河川工事を行ってきたのは、こうした土地を常習的湛水被害から守り、開墾を可能にし、交通路を確保することを目的としていました。

 伊達政宗の統治以来現在まで北上川下流域の流路の改修が行われてきたのですが、その過程を見ていきたいと思います。

 流路の変遷は諸説あるのですが、現在一般的に認められている明治以前の流路は次のとおりです(これも諸説あります)。

①慶長以前:狐禅寺狭窄部を抜けた北上川は、現在の登米市中田町浅水付近で分流し(分流していなかったという説もあります)、登米市吉田付近で迫川に合流していた。つまり、迫川の流路が北上川本流であったと考えられる。

②慶長年間(1606年~)伊達政宗は、領地開発(新田開発と水運の確保)のため、登米城主伊達宗直に命じ、北上川を浅水で締め切り、東和町米谷に大きく湾曲させる相模土手を築き、二股川に付け替えた。これで米谷-柳津-飯野川-追波川という流路になった。

           伊達宗直による改修工事後

③柳津-飯野川の流路は河道が狭く急流になり船の運航にたえなかった。また、洪水の被害も頻発した。このため政宗は川村孫兵衛に命じ、柳津で流路を締め切り西側の迫川に再度合流させるとともに、江合川を和渕で北上川に合流させ、石巻に導いた。これにより、石巻は北上川、迫川、江合川の全流域の経済圏の中心となり繁栄を迎えた。

           川村孫兵衛による改修工事後

 しかし、「これでめでたしめでたし」とはなりませんでした。続きは次回。