北海道の開拓は、1969年(明治2年)に、「蝦夷地」を「北海道」と名前を改め、開拓使を設置したことに始まります。戊辰戦を終え、開国したばかりの明治日本は、何よりも欧米諸国に対抗するため、産業を育成し、軍事力を強化する「富国強兵」をめざしました。豊富な天然資源と広い土地を持つ北海道の開拓は明治 日本の最重要課題のひとつでした。
開拓の最大の目標は稲作の実現でした。明治8年から始まった「屯田兵」制度による集団移住により、農地 開拓が進み、明治20年代には開拓地は石狩川を遡るように上流へと拡大していきます。
最初に述べた「新十津川物語」の主人公が北海道に渡ったのがちょうどこの時代にあたります。そして、開拓が順調に進み始めたと見えたころに襲ったのが明治31年水害です。これは明治以降現在に至るまで北海道最大の水害で、死者112名、被災家屋18,600戸、氾濫面積1,500km2となりました。

明治31年水害の氾濫範囲
政府は北海道治水調査会を設置して対策を始めますが、さらに明治37年にも台風により被災家屋16,00戸、氾濫面積1,300km2の被害が出ます。明治43年に石狩川治水事務所が設置され、同じ年に始まった北海道第一期拓殖計画と連携して、本格的な石狩川改修工事が始まるのですが、ここで改修工事の方針をめぐって対立がありました。
石狩川治水事務所の初代所長に就任した岡崎文吉は、自然に出来上がった河川の流路を保存し、治水上必要な箇所だけを改修するという方針で臨みました。自然河川を極力生かした河川改修を行い、放水路を新たに作るというものです。この方針は現在の河川整備の先駆をなすものでしたが、財政難でなかなか進みませんでした。
大正6年、当時の日本の土木事業をリードしていた内務省技官沖野忠雄は、この岡崎案を批判します。蛇行をショートカットする捷水路(しょうすいろ)工事を行い、流下能力を上げ、速やかに洪水流を海に排出する方法を提案したのです。岡崎・沖野の論争は沖野の勝利に終わり、これ以降一貫として捷水路方式で工事は進んでいきます。
第一期工事〈明治43年~昭和8年〉では、札幌市、深川市、滝川市の市街地における堤防工事、河口~江別間の捷水路工事、夕張川の石狩川への切り替え工事などが行われました。大正7年から昭和44年まで続いた改修工事により、最終的には深川から河口まで、それまでの231.7kmから131.4kmと、約100kmも流路が短縮されたことになります。
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石狩川本流と旧河川跡・三日月湖群(国土交通省国土保全部ホームページより)
結果的には沖野案によるショートカット工法によって、流下能力が高まり、洪水氾濫が抑えられ、水位が低下したことにより泥炭地の開発も進みました。しかし岡崎案にも理はあったのです。
河川は一定の河床勾配を必要とし、それを獲得するまでは蛇行を強めます。アメリカのミシシッピ川の改修では、19世紀から20世紀半ばまでで捷水路工事を行い、実に360kmも短縮しましたが、かなりの範囲で新たに蛇行をはじめ、ある時期にはほぼ元に戻ってしまったという事例もあります。それを抑えるには、床固や護岸の強化を行い、河岸崩壊を抑える新たな工事が必要になります。また、現在では河川環境の立場から岡崎の「自然主義」も見直されています。「多自然川作り」という考え方です。人工的な護岸だけでなく、多様な生物が生き付く環境整備、景観が求められてきています。
それはともかく、捷水路工法によって石狩川の治水上の安全性は大きく高まり、周辺の開発は大きく進みました。とはいえ、これで石狩川の水害がなくなったわけではありません。北海道では西南日本のような猛烈な豪雨による水害は少ないのですが、それでも数年に一度は勢力を保った台風が到来することがありました。昭和56年8月水害では死者2名、被災家屋22,500戸、氾濫面積614km2の水害が発生しました。
記憶に新しい水害が平成28年(2016年)の台風10号です。気象庁が統計を取り始めて初めて東北地方太平洋側に上陸した台風で、岩手県、北海道で大きな被害となりました。北海道では伊達市で一時間雨量70mm、上士幌町で72時間雨量351mmと、北海道としては記録的な大雨となり、死者・行方不明者4名、南富良野町で空知川の堤防が決壊して市街地が浸水、その他帯広市、芽室町で氾濫被害が出ました。農産物の被害も大きく、ポテトチップスが発売停止になったことを覚えている方も多いと思います。

平成28年9月10日南富良野町・空知川の氾濫(国土地理院撮影)
北海道には梅雨がないと言われてきましたが、最近では梅雨前線が北海道まで北上することが普通になってきています。台風もこれまでのように熱帯低気圧になって足早にオホーツク海に抜けるのではなく、勢力を保ったまま通過することが増えています。北海道に限った話ではないのですが、温暖化による豪雨災害の激甚化の影響が及んできているのです。
北海道の開拓と発展は水害や火山活動などによる自然災害との戦いでもありました。それでも北海道は日本の他の地方に比べると、人の手の入ることが少ない自然が保存されてきました。雄大な自然景観が北海道の大きな魅力でもあります。この北海道の豊かな自然を守りながら、新たな治水対策が進められていくことを北海道民のみならず、多くの国民が願っていると思います。
この項の主な参考文献
・木村学、宮坂省吾、亀田純著「揺れ動く大地・プレートと北海道」
・北海道開発局 札幌開発建設部「石狩川治水100年」
・川村たかし著「新十津川物語」
北海道の地名には独特の響きがあります。俱知安(クッチャン)、音威子府(オトイネップ)などの地名を初めて知った時は、なんというか不思議な世界に引き寄せられるような憧れを持ったものです。歌志内(ウタシナイ)なんて地名は、漢字だけでも素敵です。
ご存じのようにこれらの地名はアイヌ語に漢字をあてたもので、北海道はもともとアイヌ民族の地でした。アイヌ民族は、狩猟、採取を生活の糧にしていたため、明治時代に開拓使による開発が始まる前はほぼ自然状態を維持していました。
石狩平野も新潟平野同様、最終氷期終了後の世界的な温暖期(8,000年前~6,000年前頃)には海水準の上昇により、広い内海になっていました。砂州が発達し、それを石狩川などが運ぶ土砂が埋め立て、また、海水準の低下とあわせ、およそ2,000年前には現在の海岸線に近いところまで陸地になっていたと考えられています。
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石狩平野の形成過程(8000年前から現在)
北海層の川は本州などに比べ、現在でも自然河川の趣をとどめています。石狩川も開拓がはじまる前は大きく蛇行する原始河川でした。下の写真はシベリア東部を流れるアムール川の航空写真です。流路は大きく分流と合流をくりかえし、周囲には旧流路跡がはっきり見られます。アムール川は規模が大きすぎて全体像が分かりにくいので、サハリン南部にあるポロナイ川も見てみましょう。ポロナイ川は長さが信濃川、流域面積が淀川クラスとされています。

上空から撮影したアムール川

ポロナイ川(Google地図を編集)
支流を含めて合流、分流をくりかえし、大きく蛇行しています。また、旧流路もよく分かり、大きくなんども流れが変わっていますし、流路短絡による三日月湖跡もよく分かります。石狩川は現在もこのような流れの跡を残していますが、北上川、利根川、木曽川などの日本の同じサイズの大河川も、人の手が加わる前はこのような流れ方をしていたはずです。
平地を流れる川は、蛇行という名前のとおり、ヘビが進むようにうねうねと曲り、屈曲自体も下流に進み、流路を変えていきます。大きな川ほど蛇行のサイズ(幅と波長)が大きくなります。蛇行が著しく進むと、くびれた部分がつながり、以前の流路が三日月湖となります。こうした曲流河川は著しく流路が長くなり、水が河口に出るまで時間がかかるため、増水するとたやすく氾濫します。
この著しい石狩川の蛇行が石狩平野の大きな特徴のひとつです。神居古潭を抜けた石狩川は、狭窄部の出口に小さな扇状地をつくった後、深川市から下流を蛇行しながら流れます。特に滝川から岩見沢にかけては著しく蛇行しています。
石狩平野のもう一つの特徴は、泥炭地が広がっていることです。泥炭地は石狩平野の形成とともに作られてきました。
草や木が枯れて土の中に埋まると、地中のバクテリアの働きで分解され土にかえります。しかし湖や沼の縁のような水分が多く、かつ低温のところではバクテリアの働きが不活発で、分解されずにスポンジ状、繊維状の土塊となります。これが泥炭です。現在でも北海道の釧路湿原やサロベツ原野では泥炭が形成されています。本州以南では、尾瀬ヶ原などの高地にある湿原に限られています。
泥炭は石炭の形成過程の初期とみなされ、かつては乾燥させて燃料として用いられることもありました。泥炭地は極めて軟弱で、圧縮されやすく、大変に問題のある地盤です。建築だけでなく、道路や堤防の建設でも十分な対策が必要になります。石狩平野では日本の他の地方にはみられない広大な泥炭地が形成されました。
現在の北海道は日本最大の農業県(道)です。酪農や小麦、大豆、ジャガイモなどの畑作物は圧倒的なシェアを持っています。石狩平野には広大な水田が広がり、稲作でも新潟県に次ぐコメの収穫量を誇っています。しかしそのためには、これまで述べてきた石狩平野の特徴、大きく蛇行し氾濫しやすい石狩川の流れを抑えること、排水路を整備し客土して泥炭地を農地に変えるという長い戦いが必要だったのです。
毎年4月に健康診断があります。一番嫌いなのが聴力検査です。ヘッドホンを付けて「音が聞こえたらボタンを押してください。音が消えたら離してください」というアレですね。もう引退した先輩が「音がしないのに、音がしたら押せっていう馬鹿な話があるか!」って怒っていました。私も毎回高音が全く聞こえません。両耳ともだめです。で、毎回健康診断の結果で「要精密検査」と判定されます。耳鼻科に行ったら「まあ、年を取るにしたがって聴こえにくくなるのは自然ですよ」と言われました。補聴器を付けるまでではない、というのでそのままにしています。
この経年劣化というか年相応というか、これは体のあちこちに来ています。目も「白内障の初期ですね。まあ、年相応ですよ」と眼科で言われ、腰痛も「あなたね、年を取ると軟骨がすり減ってくるのは自然のことで、治療しても治るわけではないですよ。炎症を抑えて痛みを取るだけですからね」と言われました。
ところで、難聴(耳が遠くなる)でよくあるのが聞き間違いです。テレビで「女墓場放浪記」と聞こえ、なんでまた女性がわざわざ墓場を放浪するんだろう?と不思議に思ったら「女酒場放浪記」でした。ラジオで「ハウルの動く城」の中の曲が流れていて、この曲なんだっけ、と聞いたら「世界の薬局」だよ、と言われました。不思議な曲名だなと思ったら「世界の約束」でした。同じように、「ヤマンバの男」という曲が流れていて、「ムムム・・、ヤマンバは女ではなかったのか」と思っていたら「ラ・マンチャの男」でした。
ウーム、この調子ではあっちこっちで聞き間違いをしているのではないか、と内心心配しているのですが、幸いクレームは来ていないので、まあいいことにしています。実際は周りの人は困っていても、社長だから文句を言わないだけかもしれません。
言い訳するわけではないのですが、アナウンサーさんの発音は聞き取りやすいですね。テレビの音量を小さくしてもよく聞き取れます。困るのは、もごもご話す人、そばで聞いていてもよく分かりません。
体に不調を抱えている人は私に限らず、当社でも50過ぎの人はだいたい腰が痛い、膝が痛いと、どこかしら痛みと付き合いながら働いています。もっとも若い人でも腰痛持ちがいたり、花粉症で困っている人もけっこうたくさんいます。今は花粉症の季節なので、ゴーグルをつけて出勤してくる人もいます。
それもこれもそれぞれの社員の個性というか特徴です。それぞれがお互いの特徴を理解し、助け合いながら働くしかありません。もちろん自分の特徴を理解し、体調を整えて働くことも大事です。
寒の戻りで、膨らんできた桜のつぼみもまだ開かないままです。もう少しなんだけどな、という感じです。来週からは気温も上がり、春本番になるという予報です。桜も一気に咲くのではと期待しています。新しい年度を迎え、体調を整えて安全第一で頑張っていきましょう。

当社の駐車場の桜 もうすぐ咲きそうです(4月3日撮影)
東北地方に住んでいると、地図で北海道の地形を見た時、どうも腑に落ちないところがありました。東北地方では南北に続く山地と低地が東西にきれいに並んでいます。北上山地―阿武隈山地、奥羽山脈、出羽山地の列と、北上盆地―仙台平野―福島、郡山盆地、横手から米沢の盆地列ですね。この並びは大地形で見ると日本海溝と並行しています。また、火山列もほぼ同じです。東日本だけでなく、西日本でも、概ね山地―平野―火山列の方向は南海トラフと並行しています。ところが北海道では千島海溝と山地の方向は平行ではなく、むしろ直交しています。
北海道中央部の大きな山地は東西二列、東側は北見山地―日高山脈、西側は天塩山地―夕張山地があり、その間に頓別平野、名寄盆地、上川盆地、富良野盆地と続く低地帯があります。北見山地を日高山脈は中央の大雪山地でつながっていますが、日高山脈が西側にずれた位置関係となっています。
火山の並びを見ると、東の千島列島から知床、阿寒、大雪山系、西部の支笏、洞爺、駒ケ岳、恵山とほぼ東西に並び、千島海溝からの距離も同じで火山フロントを形成しています。そして、北海道中東部と渡島半島は、石狩平野と勇払平野の低地帯を境に、東西にはっきりと分かれています。

北海道の地形(地理院地図を編集)
北海道の形成史は次のように説明されています。新生代中新世以前、つまり日本海拡大以前の北海道西部は東北日本と連続してユーラシア大陸のシホテアリン地方にありました。そこには中生代白亜紀(恐竜がいた時代ですね)から古太平洋プレートが沈み込み、現在の火山フロントと同様な活発な火山活動がありました。当時の火山地帯の深部にあったマグマが固まった花崗岩が現在日高山脈中軸部にあり、沈み込んだプレートが地下深部で変成したものが、神居古潭の渓谷に見られる結晶片岩や蛇紋岩として露出していると考えられています。
およそ2000年前から1500万年前に日本海が分裂し、日本列島と北海道西部が現在の位置に移動しました。このことは何度も書いてきましたし、日本の地形、地質を考えるときに必ず出てきます。しかし、なぜ日本海ができたのかは、さまざまな説がありますが、まだよく分かっていない、というのが現実です。
プレートが沈み込む海溝―弧状列島―その背後にある海盆(縁海と呼びます)の組み合わせが日本列島を作っています。日本列島周辺には、北からアリューシャン列島とベーリング海、千島列島とオホーツク海、東西日本弧と日本海、伊豆小笠原弧とフィリピン海(四国海盆)という組み合わせが連続しています。
海溝からのプレートの沈み込みによって、プレート直上のマントルが引きずり込まれ、それを埋め合わせるために、地下深部から暖かいマントル(マントルウェッジ)が上昇し、地殻を分裂させる、という考え方で説明されていますが、すべての海溝で弧状列島と縁海があるかというとそうではありません。海溝―弧状列島―縁海の組み合わせは、太平洋北部から西部に限られます。最近ではもっと広く、インドプレートとユーラシアプレートの衝突により、広範囲なマントルへの影響があるのではないか、という考え方もあるようです。多くの地質学者、地球物理学者がこの難問に取り組んでいますが、しばらくは解答が出ないようです。
それはともかく、ほぼ現在の位置に移動した西部北海道に東から東部北海道が衝突、結合したと考えられています。
知床半島から千島列島の国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、ウルップ島はみな同じように東北東の方向を向いて並んでいます。これを雁行(がんこう)配列と呼びます。雁行配列は活断層が横ずれ運動をしたときに現れる形としてよく知られています。千島列島の弧の外側(南側)が西方向に動く、右横ずれ運動を起こしているためにこの形になり、それは太平洋プレートが斜めに沈み込んでいるため、と考えられるのです。
この斜め沈み込みの力は北海道南東部まで連続しています。十勝平野東の白糠丘陵、日高山脈、馬追丘陵などは、みな東側に凸の弓形をしています。石狩平野も大きく見ると弓形をしています。これらの変形はこの斜め沈み込みの圧力によるものです。最初に述べた北海道の地形の特徴は、プレートの沈み込みの方向と海溝の方向の不一致が原因だったのです。
この衝突によって大きく隆起したのが日高山脈です。かつて地下深部にあった花崗岩や変成岩が地表に現れ、いわばめくりあがった状態になりました。そして長い間の浸食により現在の鋭角な山稜を持った姿になりました。
北海道西部の渡島半島は地質的には東北地方北部と連続し、東北日本弧の一部とされています。そしてこの東北日本弧と千島弧である中東部北海道の接合部にあたるのが石狩低地帯であり、今回述べる石狩川の主な舞台となります。石狩低地帯も北海道圧縮の影響を受け、低地帯東西境界の断層に区切られた沈降地域にあたっています。反射波地震探査と大深度ボーリングの結果から、第四紀に堆積した地層がおよそ地下1,000mまであることがわかっています。
札幌から旭川にむかう途中に新十津川町という小さな町があります。反対側は滝川市、南隣りは砂川市、西側には増毛山地、東側は夕張山地に囲まれた石狩川沿いの田園地帯です。信濃川に続いて、これも日本を代表する大河川である石狩川について書いていきますが、まずはこの小さな町から話を始めます。

新十津川町の田園風景(新十津川町ホームページより)
新十津川町の名前は、奈良県吉野郡十津川村の住民が入植して開拓したことに由来しています。作家の川村たかしさんが児童小説「新十津川物語」で、この町の開拓と成長を描いています。単行本全10巻の長い物語ですが、子供向けに描いているので大変読みやすいです。また、1991年に斉藤由貴さん主演で、NHKでドラマ化もされているので、覚えている方もいるかもしれません。(古いなあ・・)
平成23年紀伊半島水害は、東日本大震災と同じ年に起きた水害で、和歌山県南部を中心に、深層崩壊や土石流などの土砂災害が多数発生し、死者56人、行方不明者5人の犠牲者が出た大きな災害でした。熊野川流域は山が深く、土砂災害が多いことで知られています。十津川村は1889年(明治22年)8月に起きた十津川大水害で壊滅的な被害を受けました。
十津川村内で大規模な山腹崩壊が1080カ所で発生、37カ所で天然ダムが形成され、その崩壊による洪水で甚大な被害が出ました。村民12,862人のうち死者168人、家屋の全半壊は、全戸2,403戸のうち1/4の610戸、生活の基盤を失った人は約3,000人にのぼりました。
村での生活再建をあきらめた2,691人が新たな生活を求めて、北海道に渡り、新十津川村を建設することになったのです。「新十津川物語」の主人公である9歳の少女は、両親を失い、兄と親せきとともに北海道に渡り、北海道の冬の寒さと戦いながら原生林を切り開き、田畑を開墾していきます。
そこに襲いかかるのが石狩川の洪水です。せっかく作った作物も田畑も洪水による泥土に埋まってしまいます。開拓をあきらめ離農していく人も出てきます。特に明治31年には8.2mという水位を記録する洪水が襲いました。これを機に石狩川第1期改修計画が動き出すのですが、詳細はまたあとで。
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明治31年水害 砂川付近状況(国交省水管理・国土保全局ホームページから)
ともあれ、主人公は夫を日露戦争で、子供を第二次世界大戦で失ったりしながらもこの地で生き続けます。話は子、孫、ひ孫の代まで続くのですが、その背景に常にあるのが石狩川の水害です。この児童小説を読んでいると、いかに当時の人たちが水害に翻弄されていたのか、治水事業を強く願っていたのか、ということがよく分かります。
いまでも水害はあります。それでも堤防があり、ダムがあり、川の流路は固定され動かない時代に私たちは生きています。明日も明後日もこの状態は変化しないだろう、という前提で生活しています。しかしかつてはそうでなかった。人の手が入っていない原野を切り開くところから始まった、北海道開拓の歴史でそのことが分かります。
さて、ではいつものように石狩川の流路と、新十津川町の位置を見ていきましょう。

石狩川流路図(国土地理院地図を編集)
石狩川は、北海道の屋根、大雪山系石狩岳(1967m)を源流とし、旭岳を回り込むようにして旭川のある上川盆地に入ります。上川盆地では忠別川や美瑛川などの大雪山系からの多くの支流が集中し、その後神居古潭の狭窄部を通過します。神居古潭は天塩山地から夕張山地に南北に続く山地の唯一の鞍部にあたっています。上川盆地はこの上流部の遊水地の役割を果たしており、粒径の大きな砂礫を堆積させ、ここから下流は細粒土(細かな砂や粘土)を運んでいきます。
神居古潭を抜けた石狩川は、深川から先は大きく蛇行しながら石狩平野を流れ、途中の滝川市で雨竜川と、砂川市で富良野盆地から流れてくる空知川と合流します。この合流点の右岸が新十津川町です。さらに札幌の西の江別で夕張川、南の支笏湖から来る千歳川と合流し、石狩市で日本海に出ます。
以前にも書きましたが、およそ3万年前の支笏火山の噴火で大量の火砕流が覆う前は、石狩川は南流して、苫小牧付近で太平洋に流れ出ていたと考えられています。苫小牧で太平洋に流出する勇払川と石狩川水系千歳川の分水界はちょうど千歳空港付近になります。標高13.7m、日本海と太平洋の最も低い分水界です。
石狩川の流路長は268km、流域面積は14,330km3、北海道の面積のおよそ18%を占めています。