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石狩川についていろいろ(3)石狩平野の成り立ち

2025年05月12日

 北海道の地名には独特の響きがあります。俱知安(クッチャン)、音威子府(オトイネップ)などの地名を初めて知った時は、なんというか不思議な世界に引き寄せられるような憧れを持ったものです。歌志内(ウタシナイ)なんて地名は、漢字だけでも素敵です。

 ご存じのようにこれらの地名はアイヌ語に漢字をあてたもので、北海道はもともとアイヌ民族の地でした。アイヌ民族は、狩猟、採取を生活の糧にしていたため、明治時代に開拓使による開発が始まる前はほぼ自然状態を維持していました。

 石狩平野も新潟平野同様、最終氷期終了後の世界的な温暖期(8,000年前~6,000年前頃)には海水準の上昇により、広い内海になっていました。砂州が発達し、それを石狩川などが運ぶ土砂が埋め立て、また、海水準の低下とあわせ、およそ2,000年前には現在の海岸線に近いところまで陸地になっていたと考えられています。

       石狩平野の形成過程(8000年前から現在)

 北海層の川は本州などに比べ、現在でも自然河川の趣をとどめています。石狩川も開拓がはじまる前は大きく蛇行する原始河川でした。下の写真はシベリア東部を流れるアムール川の航空写真です。流路は大きく分流と合流をくりかえし、周囲には旧流路跡がはっきり見られます。アムール川は規模が大きすぎて全体像が分かりにくいので、サハリン南部にあるポロナイ川も見てみましょう。ポロナイ川は長さが信濃川、流域面積が淀川クラスとされています。

          上空から撮影したアムール川

  ポロナイ川(Google地図を編集)

 支流を含めて合流、分流をくりかえし、大きく蛇行しています。また、旧流路もよく分かり、大きくなんども流れが変わっていますし、流路短絡による三日月湖跡もよく分かります。石狩川は現在もこのような流れの跡を残していますが、北上川、利根川、木曽川などの日本の同じサイズの大河川も、人の手が加わる前はこのような流れ方をしていたはずです。

 平地を流れる川は、蛇行という名前のとおり、ヘビが進むようにうねうねと曲り、屈曲自体も下流に進み、流路を変えていきます。大きな川ほど蛇行のサイズ(幅と波長)が大きくなります。蛇行が著しく進むと、くびれた部分がつながり、以前の流路が三日月湖となります。こうした曲流河川は著しく流路が長くなり、水が河口に出るまで時間がかかるため、増水するとたやすく氾濫します。

 この著しい石狩川の蛇行が石狩平野の大きな特徴のひとつです。神居古潭を抜けた石狩川は、狭窄部の出口に小さな扇状地をつくった後、深川市から下流を蛇行しながら流れます。特に滝川から岩見沢にかけては著しく蛇行しています。

 石狩平野のもう一つの特徴は、泥炭地が広がっていることです。泥炭地は石狩平野の形成とともに作られてきました。

 草や木が枯れて土の中に埋まると、地中のバクテリアの働きで分解され土にかえります。しかし湖や沼の縁のような水分が多く、かつ低温のところではバクテリアの働きが不活発で、分解されずにスポンジ状、繊維状の土塊となります。これが泥炭です。現在でも北海道の釧路湿原やサロベツ原野では泥炭が形成されています。本州以南では、尾瀬ヶ原などの高地にある湿原に限られています。

 泥炭は石炭の形成過程の初期とみなされ、かつては乾燥させて燃料として用いられることもありました。泥炭地は極めて軟弱で、圧縮されやすく、大変に問題のある地盤です。建築だけでなく、道路や堤防の建設でも十分な対策が必要になります。石狩平野では日本の他の地方にはみられない広大な泥炭地が形成されました。

 現在の北海道は日本最大の農業県(道)です。酪農や小麦、大豆、ジャガイモなどの畑作物は圧倒的なシェアを持っています。石狩平野には広大な水田が広がり、稲作でも新潟県に次ぐコメの収穫量を誇っています。しかしそのためには、これまで述べてきた石狩平野の特徴、大きく蛇行し氾濫しやすい石狩川の流れを抑えること、排水路を整備し客土して泥炭地を農地に変えるという長い戦いが必要だったのです。